ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

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第70回記念展示会

自分でも信じられない歳、71才。

思い起こせば一年間の浪人生活を経て慶應義塾大学へ合格、初めての一人暮らしへの期待と不安を抱えて東京駅に降りたって50年、半世紀が過ぎた。

55歳で白血病に罹患し、急死に一生を得たのも、ついこの間のようだ。そして69才を迎える前日は京都KBS放送のラジオ番組に出演して「布の道標」展のインタビューに答えていたから記憶は鮮明である。

そして今年の9月29日から第70回記念展示会の開催である。

この会は70年間ぎをんの店で開催されてきた。

 

ただ50回記念は例外として「一力茶屋」を3日間借り切って開催し 300名近い来客とイタリア、「リチャード ジノリ」で作らせた別注品カップ、ソーサーの記念品が好評で今でも語り草になっている。

本当にあっという間の50年であるが、それが人生というものであろう。

「ぎをん齋藤」は今年で創業176年になる。

京都ではそう珍しい事ではないが、先祖も幕末、日清、日露の戦争を経て最大の危機、第二次世界大戦を乗り越えて現在に至っている。

その先祖の血と看板を背負って今日を生きていると思えば何か荘厳な気持ちにもなる。

毎日仏壇に手を合わせる時にはご先祖に「私の働きはこんなもんで良かったでしょうか?」と問い掛けるのが日課である。

美しいものを追い求める一生

美しいものを追い求めて生きていけるのは幸せな事である。

振り返ってみると、私の一生は美に対する憧れと家業をどう調和させるかの調和点を求めて来た一生だと言える。

若い頃は稼ぎもないのに大金を出して古裂だけではなく、茶道具や絵画などを買い求めた時期もあった。

また自ら作り出す努力も惜しまず、草木染めで生地や糸を染めたり、染料を溶かした液を気化させてぼかし染めを試したり、下絵を筆で描いたりと色々と試みてきたが、今だにその職人気質は変わらない。

一方、経営者としは収支の取れた健全経営を実現し、有能な後継者を育ててきた。

私が社長に就任した時に初めて「社是」を創案し、今でも毎月の定例会議では社員一同が確認できるようレジメに印刷して配布している。

その第3項は「染織品をアートとして昇華すべし。」と加えている。

当時から、ただの衣類ではなく芸術品 として評価してほしい、いや世界の染織品と比べても桁外れに頭抜けた美があり、必ず世界で認められるはずとの願いが込められている。

今振り返ると長く生きて多くの人と巡り合ってきた、

「短い一生、面白おかしく生きる人」、

「家族と別れ、出家してストイックに生きる人」、

「物に拘泥して他の事は深く考えない人」、

「好奇心の赴くまま生きる人」、

どの生き方が良いとか悪いとかではなく、それぞれ生まれ持った天命があるように思える。

私も天命のもとに人生を歩んできた気がする。

誰が一体天命を決めるのか?

男と女は何故理解できないのか?

知りたいことはまだ沢山ある。

「男はロマンに生き、女は現実に死す」私の造語である。

男と女はどこまで行っても理解し合えることは無い宿命であろう。

「ジョアン  ジルベルト」の死に深く哀悼する。

昨日「ジョアン  ジルベルト」が亡くなった。享年88歳らしい。

「ボサノバ」という音楽をご存知だろう。

その「ボサノバ」を創り出したのが「ジョアン  ジルベルト」である。

彼が最初にレコーディングしたアルバムの解説には、余りにも素朴な歌唱に、「この歌を聞けば、貴方でも歌手になれる。」と評論家が書いたらしいが、「ジョアン  ジルベルト」の奥深い野趣な歌唱力が理解できなかったようだ。

当時は「カルロス  ジョビン」が「イパネマの娘」など立て続けにヒット曲を繰り出したのでボサノバというとジョビンを挙げる人は多いが、渋いジルベルトが本筋だと思っている。

ジルベルトのアルバム、「アムロッソ」にある「Estate」(夏)は私の最も好きな曲で私自身の曲のように身近だ。

学生の頃に見つけたメローでお洒落なこの曲は、この50年間、いつも私の側にあるボサ バラードである。

彼は東京でコンサートを二度ほど開いたそうだが二度とも私の体調が悪く聞き逃してしまった。

伴奏者もいないギターの弾き語りで、開演時間が過ぎたのに滞在中のホテルから会場に向かうという塩梅で、ブラジルらしいおおらかな人生を過ごしたのではなかろうか。

私の時代を華やかに彩った巨星がまた一つ流れてしまった。