ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

ブログ

学ぶなら江戸時代以前の裂に学べ

 

「玉石混交」という言葉がある。良いものと悪いものがごちゃ混ぜになっている状態をいう。

染織品も江戸中期を過ぎると、現存する遺例も急激に多くなるので研究をするには好都合であるが、半面、玉石混交の中から「玉」を選び出す眼が必要となり、「石」を見習うと悪趣味なものになってしまう。その点で江戸時代以前の裂は、身分の高い人が身に付けていた衣装であるから「玉」の裂ばかりである。

その訳は、絹自体が大変高価なもので砂金と等価とされていたくらいだから、権力のある人にしか手に入らないという理由と、当時、同朋衆と呼ばれる眼の肥えた人達が選んだものに袖を通すのだから「石」の類はないと言える。

この辺りは私の推測で、研究者の人には笑われるかもしれないが、私の目からすると江戸時代以前の遺例には「外れ」はないと言うのが正直なところである。しかし残念なことは、それ以前、平安、鎌倉、室町時代の700年間も美しい布が全く遺されていない事実である。江戸時代が始まる17世紀から現在の21世紀まで500年、それ上回る時代の遺例が殆ど無いのだから手も足も出せない口惜しさがズシッと重い。

何とかしてあげたい若い職人さん

昨年後半、探している腕の良い職人とは別に、2人の壮年職人が仕事の依頼に「ぎをん齋藤」を訪ねてきた。かねがね、将来を見込める職人は必要だから探すよう社員にも申し付けてあるから、大いに期待して話をし、試しに仕事も出してみた。

彼らに共通する類似点は、数多くの染め工程を自分一人でできると言う点であった。

各工程一つ極めるにも年月がかかるのが普通だが、彼らは器用にやれると言う。しかし残念ながらどれも不十分な完成度で「ぎをん齋藤」の仕事には不適格と判断せざるを得なかった。彼らにはもう一つ共通点があり、歳は40歳を過ぎ、妻子があるのである。

もっと若い、例えば20代の人なら当社の社員として教育していくのは可能だろうが、家族持ちでは私の責任が重すぎる。困った! どうしてあげれば彼らがこの染色業界に留まれるか? このような現象が起こる可能性は予期していた。

今でもいわゆる「作家物」と称して高い付加価値を取ろうとしている業者が横行しているらしい。業者にしてみれば器用な職人を「先生」とおだてて、売れなければ使い捨てにしている噂を聴いたことがある。業者にしてみれば、この着物不況の時代、売上を増やそうと懸命である。また、若い職人はいっぱしの染色作家と言われたい。この二つの思惑が作家ブームを起こしたのだが消費者は賢明である。良いものと悪いものの区別は見ていれば分かるようになる。

こんな例えもある、「文化の進んだ地域でよく売れるものを文化の遅れた地域へ持っていっても良く売れる。」だがその逆は真ならずと。残念ながら、今のところ若い職人を守る手立ては立っていない。

二枚のシルク絨毯

 

私は二枚のシルク絨毯を自宅で使っている。一枚は義理があって買ったペルシャ絨毯を真似た中国製の花柄、もう一枚は最近手に入れたイランのタブリーズ製のレッキとした幾何学模様のペルシャ絨毯である。

肌触りは二枚とも大した差はないが色の発色が違う。明らかにタブリーズは色に深みがあり、模様の細工が細かく、工房のサインが織り出されている。一方の中国製はやはりどこまでいってもコピー商品だと感じさせる寂しさがある。本物とニセモノは比べた時にはっきり差が出るものだ。

こういう経験をした事で眼が一段ステップアップしたのだから、コピーを買ったお金は成長のための授業料だと解釈している。一番悔しいのは良いものだと思って大事にしていたのが、別のものと比べてみて自分のものに幻滅したときのショック。一番嬉しいのは思わぬ安く本物を手に入れた時。

世の中には様々な物で満ち溢れている、どんなものを身の回りに置くことができるか、その人の審美眼と財力次第ということか。