ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

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美とは心地良さである。

世の中には色々な美が存在する。風景、人物、絵画、工芸品、音楽など、ありとあらゆる物に美と美でないものがある。数学の方程式にまで美があると言うから奥が深い。

 

そして美の本質は受け止め側の「心地よさ」であると思っている。人の顔やスタイル、気質など心地よいと感じる人と日常的に会ったり見たりするから美が存在すると気付く、音楽なども説明がなくても美しいと感じるメロディーラインがある。

 

しかし美術品や工芸品となると、おやっと思うことが多いのではないか。肩書きを見て無理やり納得する人が多いと思われる、私など「なぜこれが国宝?」と首をかしげることもある。

 

 

古代ギリシャ人は絶対美を求めて石膏で彫刻を作り、その完成形の一つが「ミロのビーナス」であり、彼らは哲学的、論理的に人体の美学を追い求めてきた民族である。

 

その視点でいうと日本人は自然美を絵画的、文学的に追求した民族ではなかろうか、移ろう四季の美しい瞬間を筆や言葉で表現しようと多くの先人達は努めてきた。

 

もっとも江戸時代には美人画が流行したが、あれは今で言う「美人コンテスト」のようなもので哲学的でも論理的でもない。なんの先入観もなく「心地良い」と感じた物が、その人にとって美であり、それを素直に認めることが美を見極める力となる。

 

普遍的で絶対的な美など存在しないと思っている。さらに言えば「伊藤若冲」の絵を見て心地良いと私は感じたことはない。

 

 

聖観音立像

友人の陶芸家に依頼して作ってもらった陶仏の観音さまがようやく我家の坪庭に鎮座した。

 

友人は高校のクラスメートで清水六兵衛窯で長らく修行しただけあって腕は間違いない。抹茶茶碗や水指など茶陶を多く作ってきたが近年、陶仏や宝塔などを製作していたので観音さまの製作を依頼していた。

 

 

この作品は信楽の土を用い、穴窯で焼いたもので高さは40cm程で光背には墨色の灰が掛かり自然な景色を生み出している。特にお顔がガンダーラ仏を想わせる西洋的美人なところがとても気に入っている。

 

次は敷き詰めた白砂利を取り除き、苔に敷き変えれば一つの小さな宇宙が完成する。

 

 

世間は広い

古裂が市場に出ないと嘆いていたら、京都在住のある男性が山のような数の古裂を売りに出したらしく、親しい古美術商が全部まとめて買い取ることになった。

手元に届いたとの連絡があり、早速、店を訪れると、まさに山のように積まれた古裂のコレクションを目にした。

話を聞くと、そのコレクターは全く古裂には興味がなく知り合いの古美術商から勧めらるままに買っていたというから驚きである。世の中には風変わりな人がいる、しかも同じ京都市内に、、、。

世間は広いと感じると同時にお宝は意外なところに眠っているものだと感心する。玉石混交のコレクションから私が買い求めたのは能衣装裂2点である。


桃山時代に初めて織り出された「唐織」は当時流行していた「縫い箔」を織物で表現しようとして始めたと想像されるが、名前とは裏腹にれっきとしたメイド イン 西陣である。

私のコレクションとなった2点は織り行きや絵に古格な素朴さが見て取れる。素晴らしい品が手に入った。