ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

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「徹すれば通ず」

物作りの要諦がこの歳になって少し分かりかけてきた。

若い頃は物が見えず「いいもの」か「悪いもの」かの区別がつかず、不安を抱きながら手探りでものを作ってきたと記憶する。例えば職人の技量が計れず、工賃が適切かどうかの判断ができないまま指示してきたような気がする。

結局、売れたものが「いいもの」で売れなかったものが「悪いもの」だという変な結論がでてしまった。それでも物作りを止めずに現在までどうにか継続してこれたのは幸運であったとしか思えない。

ようやくこの数年、自分が「これだ」と思ったものに徹して作っていく姿勢が人の共感を呼び起こすもとになっていると気付くようになった。

つまり「徹すれば通ず」なのである。逆に特定の人に気に入られようとして作ると魅力を失うことになる。

昨今の風潮で消費者のニーズに応じて価格設定をして物作りをすることが大切だと声高に叫ばれ、その結果、似たよう物が似たような価格で販売され総じて個性的で魅力のあるものが少なくなった。私など巷で売られているもので、どうしても欲しいと思うものが少ないのは寂しい。

昨今の情報過多時代に販売力だけで生きていくのは難しく、自己の主張をはっきりさせて、物作りをし、しかも徹することが大切なことであろう。

「夏のはんなり展」近づく

7年前から東京で開催している夏物のきもの、帯展は徐々に定着しつつある。

いつの頃からか6月に入ると夏帯に単衣物、夏襦袢、7月、8月は透けた生地のきものに夏襦袢、9月は6月と同じという流儀が決まりごとのように教えられ、現代の一部のコミュニティーでは結構厳密に励行されている。もちろん江戸時代まで遡ると違う決まり事があったに違いない。

真夏にきものの正装で出掛けることは稀であろうが、6月、9月は結構、催し事があると聞く。そんな折に着るべききもの、帯が世間であまり売られていないので、ぎをん齋藤に問い合わせいただく方が多い。

私自身は夏の素材、薄絹、麻、ピーニア、葛、藤布、蓮など創作意欲が湧く素材が多いので作り手としては楽しいのだが、消費と結びつき難いのがたまに傷である。

以前にも述べたが夏のきもの姿は決して涼しくはない。汗ばむのは我慢して相手に清涼感を与えるのが日本の謙譲の美徳の心である。

「武士は食わねど高楊枝」の心意気であくまでも涼しげに着てほしい。

展覧会への偽らざる気持

6月の古裂展観まで一月余りとなり、展観作品の打ち合わせを細見美術館と行なっている。

古裂は全て陳列するが、他にも古裂を利用した現代のきものや先祖が残した「神坂雪佳」肉筆のきもの下絵、作者不明の墨絵などを、どう展観するか学芸員の腕の見せどころである。

実のところ私自身は今回の展覧会を光栄に感じると同時に、反面おもはゆく思っている。

40年余かかってようやく蒐めた私の汗の結晶であり、分身のようなものを皆様にお目にかけるのは皆様の前で裸になるような、そんな気恥ずかしさが先に立つ。

これと同じ気持ちを抱くのは、ぎをん齋藤のきもの、帯を身に付けたお客様と会ったときも同じである。別の例えにすれば、自分が書いた文章を読むのは鏡で自分の顔を眺めたような気分で照れ臭い、きもの、帯を見せられると私の人間性をさらけ出したようで恥ずかしくて冷静ではいられない。

こんな事を感じるのは私だけだろうか?想を入れ込んで一つ一つ作る作業は自分の分身を作る作業なのだろうか。