ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

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「茶碗の中の宇宙」展を観る。

京都国立近代美術館で2月まで開催される「楽」家の作陶展を観る。

楽茶碗といえば千家の茶道には欠かせない茶碗である。量産不可能な技法から創り出される焼物は轆轤を使わず一つ一つ大切に焼成される。

私が特に好きなのは楽家初代「長次郎」の作品で、千利休が大成した侘び茶を象徴する利休の美意識が結実した作行とも言える。

それよりも今回私が発見したのは本阿弥光悦の赤楽茶碗の素晴らしさである。
銘「加賀」,「乙御前」(おとごぜ)の2碗を観れただけでも十分収穫はあった。形、釉薬、景色どこから見ても完成度に隙がない、以前から写真では見知っていたが実物を見ないとその良さは分からなかった。

楽家と縁戚関係にあった光悦は、茶碗づくりが本業ではなく刀の鑑定を生業とするが書道、作陶だけに止まらずあらゆる工芸への美意識は計り知れない高さを感じた。

28年前の日記を読み返す

一度整理しなくてはと思いつつ放置してきた日記を正月の暇にあかせて読み返す。

読後感と仕事に係る思いつきが書かれている分厚い日記は10年程の歳月を書き綴っている。

特に仕事に係る部分では現在の心境とチット!も変っていないので自分の進歩の無さに呆れかえる。誰でもこんなものなのだろうか?それとも私がおかしいのか?

28年前というと40歳、その頃から古典的なきものに対して良さは認めつつも飽きたら無さを感じていた自分がいた。現在「ソワレ」と称して制作している、一連のモダンを表現したいとの思いを既に描いている。

このモダニズムに対する気持ちは変わらないが、未だに高く評価されない(あまり売れない)現実も28年前と変わらない。きものに対する消費者の要求が保守的というか変わらないという事なのか。

この日記も整理がついたのでめでたく廃棄することにしよう。

年の瀬

毎年のことだが12月も20日を過ぎると、何となく気忙しく落ち着かない毎日になる。

特別に何かあるということはなくても「年が改まる」「正月」というプレッシャーが私に圧力を加えるのであろうか?一年間を振り返り「今年はこんな事もあった、あんな事もあった」と妙に神妙な気持ちになるのは私だけだろうか?

個人的には病気に悩まされて皆んなに心配をかけた2年に、来年こそ「再起する」という希望のような決意のような思いが気持ちを高ぶらせる。

四柱推命によると今年は私のように「七赤」生まれの人は最悪の年らしく、災が降りかかる事が多いという。そういえば同級生の中にも亡くなった人や経済的危機に直面する仲間の話もよく耳にする。これは偶然なのか?

大学生の頃に「麻雀」をやっていたが日によって何をやっても勝つ日もあれば、負けないようにしていても「ビリ」になったりと腕前とは別に何かが働いていると感じることはあった。

「運」って何だろう?何かの法則に従って作用するのか?科学の世界では全て偶然とされるのだろうが、何となく腑に落ちない。初詣に神社にお参りに行くのも幸運を祈るためだから「運」は天が司っていると考えている人が多いということか。来年こそは「元気ハツラツ」一年を過ごしたいと願う今日この頃である。