ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

ブログ

古裂よもやま話

裂でも完品(完璧な形で残っている品)からゴミのように小さいものまで、状態と景色(構図)、時代によって値段は乗数的に変わる。例えば辛うじて模様がわかる程度の辻が花なら数千円、A3サイズ程度になると数百万円、完品だと1億円というのが相場であろう。

先般も慶長小袖(江戸初期)を1億円で売るという話を聞いたが、下手すれば「ボロ布」としてゴミ箱に捨てられてしまいそうな裂が数百万の価値があるのだから「値段って一体何だろう?」と改めて考えてしまう。

単純に言えば需要と供給のバランス、経済原論の示すとおり欲しい人が多くて供給する人が少なければ値段は上がる。今流行りのオークションも会場で競り合い、我を忘れて高値で落札すれば売手の思う壺となる。古美術商の世界では過度な高値になり過ぎないように、最高額でくじ引きをすると聞いた事がある。

そう言えば、本阿弥光悦が茶道具屋で見つけた茶入を手に入れるために全財産と交換したと母に伝えると、母は「でかした!」と褒める一節を思い出す、江戸初期にも光悦のように無類の道具好きが既に存在したのだ。

一つの仮説

染織の歴史を辿ってみると、中国と日本における発展の違いに気付く。絹糸と絹織物の原産は中国だが、9世紀の遣唐使廃止以後に日本の進む方向が変わったと考える。


 源氏物語絵巻(12世紀)より

中国、隋、唐時代(6〜10世紀)絹織物の頂点を迎え、錦織をはじめあらゆる織物が花開いたが、染物についてこれといった品は刺繍以外見当たらない。

一方、日本が渡来系職人の指導により彼等にも劣らぬ織物を完成させたのは天平時代(8〜9世紀)であったが、遣唐使の廃止以後日本は国風化が起こり漢字から仮名文字を編み出すと同じように絹は織物から染物への利用が多くなったと私は考える。

なぜこのような違いが生じたのか?

その答えの一つが「水」ではないかと考える。中国文化の中心は中原(ちゅうげん)にあり、現在の河南省辺りを指すのだが、あの地域は良い水に乏しい地域である。染物にはふんだんな水が必要で染め上げるまでに大量の清水が必要となる。

一方織物や刺繍は糸さえ染めておけば場所があれば仕事にかかれる。この差が両国の染織文化の違いを生みだした大きな要因だという仮説である。

生憎「辻ヶ花」以前の染織品が未だ国内で確認されていないが、鎌倉時代に描かれた絵巻物には几帳に秋草のようなものが描かれたり女性の小袖に絞りの鶴のようなもの描かれていたり、有職衣装とは別に私生活で使用された素晴らしい衣裳があったはずである。


 春日権現絵巻(14世紀)より

日本の染織史を完成させるためにも9世紀から13世紀の遺品が発見されるのが待たれる。

廓(くるわ)とぎをん齋藤

ぎをん齋藤のことをよく知らない人から「おたくは祇園の芸妓、舞妓のきものを専門に作っている店ですか?」と尋ねられることがある。

確かに先代の頃は廓のお客様が多かったと記憶している。初代の上京区から祇園に移転してきたのもその筋の顧客を獲得する為だったかもしれない。

現在店のある新門前通は京舞「井上八千代」氏のお膝元、先代家元のころから舞の衣裳などのご下命を頂いていたのも事実、そのご縁で祇園甲部のお客様が増えたのであろうと推測する。

私が7代目を継いだ頃は廓好みのきものを積極的に作り出し地域に密着した経営を目指した。しかし古裂を研究していくうちに、自分が本当に作りたいのは江戸後期の美ではなく、桃山時代の小袖や同時代にインドに注文して作らせた更紗など16世紀の美に惹かれるようになった。

その頃からぎをん齋藤のテイストは変わっていったと自認する。消費者のニーズに合わせて物を作るのは商売上常識かもしれないが、人間、歳を重ねると「ワガママ」が優先しまうのか自分の本質が露呈するのか、気の向くものしか作れなくなる。

徐々に廓とは離れつつあるのも致し方ないと思っている。