ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

ブログ

ものづくりの極意

社員に物作りの要諦を教えるのも私の仕事である。

一番のポイントは作る物に「惚れる」ことで、消費者に迎合する物作りは感心しないと教える。

もちろんコストを考えずに作るのは無謀であり商業的ではないし、売りやすい値段を目指すのは工芸の宿命ではある。

一定のキャリアを積めば、気の向くまま作って高額な商品になってしまっても必ず支持してくれる人は現れるとも教える。その域に達するまで打ち込み続けられるかの問題なのだ。

また失敗を恐れないようにとも教えている。

その例えに持ち出す話はメジャーリーグのイチロー選手、彼の全盛期でも4割のヒットは打てなかった。従って自分の作ったものの4割が売れれば上出来と言うべきで、すぐには売れなかったものはどうすれば売れるかもう一度加工し直す事を教えている。

私の作風を真似、ぎをん齋藤のテイストを保ちながら新しいものを生み出す腕も20年位磨けば可能だと考えている。

「茶碗の中の宇宙」展を観る。

京都国立近代美術館で2月まで開催される「楽」家の作陶展を観る。

楽茶碗といえば千家の茶道には欠かせない茶碗である。量産不可能な技法から創り出される焼物は轆轤を使わず一つ一つ大切に焼成される。

私が特に好きなのは楽家初代「長次郎」の作品で、千利休が大成した侘び茶を象徴する利休の美意識が結実した作行とも言える。

それよりも今回私が発見したのは本阿弥光悦の赤楽茶碗の素晴らしさである。
銘「加賀」,「乙御前」(おとごぜ)の2碗を観れただけでも十分収穫はあった。形、釉薬、景色どこから見ても完成度に隙がない、以前から写真では見知っていたが実物を見ないとその良さは分からなかった。

楽家と縁戚関係にあった光悦は、茶碗づくりが本業ではなく刀の鑑定を生業とするが書道、作陶だけに止まらずあらゆる工芸への美意識は計り知れない高さを感じた。

28年前の日記を読み返す

一度整理しなくてはと思いつつ放置してきた日記を正月の暇にあかせて読み返す。

読後感と仕事に係る思いつきが書かれている分厚い日記は10年程の歳月を書き綴っている。

特に仕事に係る部分では現在の心境とチット!も変っていないので自分の進歩の無さに呆れかえる。誰でもこんなものなのだろうか?それとも私がおかしいのか?

28年前というと40歳、その頃から古典的なきものに対して良さは認めつつも飽きたら無さを感じていた自分がいた。現在「ソワレ」と称して制作している、一連のモダンを表現したいとの思いを既に描いている。

このモダニズムに対する気持ちは変わらないが、未だに高く評価されない(あまり売れない)現実も28年前と変わらない。きものに対する消費者の要求が保守的というか変わらないという事なのか。

この日記も整理がついたのでめでたく廃棄することにしよう。