ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

ブログ

「夏のはんなり展」近づく

7年前から東京で開催している夏物のきもの、帯展は徐々に定着しつつある。

いつの頃からか6月に入ると夏帯に単衣物、夏襦袢、7月、8月は透けた生地のきものに夏襦袢、9月は6月と同じという流儀が決まりごとのように教えられ、現代の一部のコミュニティーでは結構厳密に励行されている。もちろん江戸時代まで遡ると違う決まり事があったに違いない。

真夏にきものの正装で出掛けることは稀であろうが、6月、9月は結構、催し事があると聞く。そんな折に着るべききもの、帯が世間であまり売られていないので、ぎをん齋藤に問い合わせいただく方が多い。

私自身は夏の素材、薄絹、麻、ピーニア、葛、藤布、蓮など創作意欲が湧く素材が多いので作り手としては楽しいのだが、消費と結びつき難いのがたまに傷である。

以前にも述べたが夏のきもの姿は決して涼しくはない。汗ばむのは我慢して相手に清涼感を与えるのが日本の謙譲の美徳の心である。

「武士は食わねど高楊枝」の心意気であくまでも涼しげに着てほしい。

展覧会への偽らざる気持

6月の古裂展観まで一月余りとなり、展観作品の打ち合わせを細見美術館と行なっている。

古裂は全て陳列するが、他にも古裂を利用した現代のきものや先祖が残した「神坂雪佳」肉筆のきもの下絵、作者不明の墨絵などを、どう展観するか学芸員の腕の見せどころである。

実のところ私自身は今回の展覧会を光栄に感じると同時に、反面おもはゆく思っている。

40年余かかってようやく蒐めた私の汗の結晶であり、分身のようなものを皆様にお目にかけるのは皆様の前で裸になるような、そんな気恥ずかしさが先に立つ。

これと同じ気持ちを抱くのは、ぎをん齋藤のきもの、帯を身に付けたお客様と会ったときも同じである。別の例えにすれば、自分が書いた文章を読むのは鏡で自分の顔を眺めたような気分で照れ臭い、きもの、帯を見せられると私の人間性をさらけ出したようで恥ずかしくて冷静ではいられない。

こんな事を感じるのは私だけだろうか?想を入れ込んで一つ一つ作る作業は自分の分身を作る作業なのだろうか。

「海北友松」展を観る。

京都国立博物館で開かれている「海北友松展」は地味な作行きが多いせいか、大した混雑はなく、観る側からすれば有難い。

海北友松の絵は一言でいうと「力強さ」である。狩野派に学び、後に宋画、特に「梁楷」の影響を受けたものか、作品の多くは墨一色で描かれ力強く荒削りである。最高傑作は建仁寺本堂に描いた「雲龍」で桃山時代特有の豪胆さにあふれている。

多くの作品の中で私が着目したのは屏風の下地、グラウンドの表現である。

金を巧みに利用し淡い墨と金泥、金箔を併用して絵に奥行きを表現している。この手法が狩野派の影響なのか伝統的な大和絵の手法なのか私には分からないが、少なくとも中国の水墨画には見られない手法であり、私のきもの作りの大いに参考となった。

他にも全体を墨で描き一輪の春草だけを彩色して視線を集める手法や、「貼り付け扇面散らし」は、別に描いた扇面を屏風に貼り付けるなど「ぎをん齋藤」の得意とする「切付け」と共通するのもおもしろい。

作品には秀作、力作、愚作など優劣ができて当たり前だが、友松が晩年に描いた一連の作品は力強さに欠け「手が枯れる」というよりも「気力に欠ける」平凡な作品になったと観た。