ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

女将思い出語り

義父の商い

義父の思い出はたくさんありすぎて何から書いたら良いか迷うほどです。実に個性的な人でしたから…

生涯を着物で通した義父は祖母に対して大変忠実で、信心深く、倹約家(京都ではしまつ家と言うけれど…)、質素、生真面目で温厚な性格でした。しかし仕事に関しては厳しく、祖母に続き商いについて教授してくれたのが義父でした。

 

義父の毎月上旬の仕事ぶりは、あの細い身体で、風呂敷に包んだ反物荷物を肩に一つ、腕に一つ持ち、大阪、神戸方面を阪急・京阪電車を乗り継ぎ出かけます。

その当時の義父らしいエピソードですが、ある真夏の暑い日の夕方、義父は京阪神を廻り、帰路京阪三条駅に着いたとたん、体力が尽きて反物をかかえたまま倒れました。主人が連絡を受けて迎えにいきましたが、義父は朝からかき氷一杯しか食べていない…との事。仕事好きも良いけれど、ここまで来ると可哀想やら、また何と不器用な事かと、つくづく同情したことを鮮明に覚えています。

中旬は東京へ出かけ能楽、地唄舞関係の方々にお会いして二泊ほどで帰って来ます。常宿は東銀座東急ホテルでしたが、現在はもう建物が残っていません。着物姿の義父はホテルのドアマンが覚えてくれていて「お帰りなさい!齋藤さん!」と声を掛けてくれるのがとてもお気に入りだったようです。その頃の新幹線は片道三時間四十分もかかる時代でした。

 

下旬になると義父の苦手な伝票書きで月末を迎えるのです。常々義父は私に「仕事は楽しくしなくてはあかんよ!」と言うのですが、私は唯ひたすらお客様に買っていただく事のみに気合が入っていました。しかし義父の言う通り、それでは楽しくないのです。それで義父の商い振りを観ておりますと、接客中の義父が「楽しくて仕方ない!」と満面の笑みで、なぜだろうとさらに観察していると、お客様との世間話等で心が弾んでいるのです。

そんな空気感の中で義父はお客様の一番似合う着物の地色から商いに入ります。会話の中で「あんたはんには、この色が一番似合わはります!」と言い切り、以前お求めいただいた品々との組み合わせを提案しておりました。お客様のタンスの中身をすべて記憶しておりますから、お客様も安心して下さったのでしょう。「品物は値段ではなく、安くてもその人に一番似合うものを選んであげなあかん」というのが義父の口癖でした。

 

義父は昭和六十二年五月、七十二歳にて闘病の末亡くなりました。現在でも義父の直接のお客様がお二人いらして先斗町にお一人、千葉幕張にお一人。引き続き当店をご贔屓いただいております。

大変有難い事です。感謝! 感謝!