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ぎをん齋藤スタッフによる、染めに関わるウンチク+京都な日々をお届けします。敷居の高い印象を持たれがちな弊店を、少しでも身近に感じて頂ければ幸いです。

左近の梅、右近の橘

暑いですねぇ(;´Д`A

今日は湿度、もとい不快指数の高さも相まって、なかなか着物のことを検討するには不向きな環境です(^-^;

そんなタイミングではありますが、大城のもとには袷の訪問着や振袖のお話の方が専ら寄せられておりまして、今日もその準備で職人さんにアレコレご相談な一日でした。あるお客様にお送りした振袖画像が綺麗に撮れたものですから、折角ですしちょっとウンチク添えてブログ記事にしてしまいますね♪

クラシックな雰囲気のこちらの振袖は、ご覧の通り裾まわりに橘と梅を描いております。この組み合わせはタイトルにもしました、【左近の梅、右近の橘】がその原案です。

「左近の桜」ではないの??

と感じた方は鋭い!やはり広く知れ渡っているのは【左近の桜、右近の橘】です。が、この話には少しルーツと申しますか、小ネタがありますので、今日はそのことを掘り下げて参ります。

そもそも、「左近の桜、右近の橘」という呼び方は宮中の警固を行う近衛府である左近衛府と右近衛府が、平安宮内裏の紫宸殿前の2種類の木花の近くに配陣されたことが始まりとされています。しかしながら、平安遷都の当初は左近衛の近くには桜ではなく「梅」が植えられていたのだそうです。奈良~平安初期というのは大陸(唐)文化の影響を強く受けていた時代なので、平安遷都のタイミング(794年)においては大陸由来の梅はそれはもう特等席に植えられるべきファーストチョイスだったわけですね。万葉集(奈良時代)でいうところの「花」とは「梅」をさしていましたし、事実、万葉集にて詠まれた花の数は梅が約120首、桜は約40首。梅が圧勝しております(”ω”)ノ

ただ、この流れにも陰りが出て参ります。唐王朝の衰退とともに「白紙(894年)に戻そう遣唐使」という陰りですよ。この語呂合わせが生まれて初めて役に立った気もしますが(笑)、兎にも角にも遣唐使は廃止され、日本独自の文化がこの頃から隆盛し出すんですね。古今和歌集(平安時代)は905年に編纂されましたが、詠まれた花の数は梅が約20首に激減し、桜は75首!に倍増。日本の代表花の交代劇がこのような形で成されていったということを大城はこの歳になって漸く理解しました。人間日々勉強でございます。

で、話を本題に戻しますが、960年に紫宸殿は当初に植えられていた梅・橘とともに焼失してしまいます。もちろん再建します。でも!ここまでの流れを踏まえればご理解いただけると思いますが、紫宸殿前庭に新たに植えられたのは梅ではなく、国風文化の象徴である「桜」であった、というわけです。文化にもちろん勝ち負けがあるわけではないですが、このエピソードは個人的には実に面白かったので長々と記事にさせていただきました( *´艸`)

画像の振袖は、そんな経緯も丸っと飲み込んだ中で、より古式に則り【左近の梅、右近の橘】柄としております。

なんだか深みが出てきましたでしょ(^^)?

ファッションとしての着物も大好きですが、こういう背景を知った上でお召しになることもまた着物の格別の楽しみのひとつ。なんていう大城の私見を交えて、本日の記事はまとめとさせていただきます(^_-)-☆

 

ぎをん齋藤・大城

gionsaito-ohshiro@outlook.com