ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

女将思い出語り

娘は母親の着せ替え人形

節分を迎える頃、京都は一番の冷え込みと言われますが、流石に今年の寒さは体感の冷たさとコロナ禍の心の寒さが厳しく、春の陽差しが実に恋しい毎日です。

更にステイホームが続き、家の中を整理していると、子どもたちの幼い頃の思い出がたくさん現れ、主人も私自身も、とても若く、肌のハリとツヤもあり、過ぎ去った人生時間が切実です。

可愛い子どもたちの写真を見ていると、上二人は息子ですが、小学生のころは家にほとんど居なくて、近所の子どもたちと一緒に、ここ祇園街の中を夕方まで遊んで回っていました。

ある時二人がそーっと帰って来ましたが、ドロドロに汚れて、持ったバケツの中に亀が数匹入っていました。円山公園の池の中に入り採って来た亀です。私は急いで息子二人と共に池に戻しに行ったのですが、京都市の公園ですから、職員の方からお叱りを受けました。大変申し訳ない事でした。

 

息子二人はこのようなイタズラはもう日常的でしたが、一人娘は常に私の側から離れず、一緒でしたから、自ずと手を掛ける事も多く、洋服もですが、着物はやはり七五三、他、折々に着せる事が楽しみになっていきました。初着を、幼児用にして七五三にと、寸法をだんだん成長に合わせて仕立て直しする事が、母親にとって実に幸せな充実感です。

義父も可愛い孫を、私と同様に着せ替え人形の如く「あれが良い…」とか、「大人になったら着れない色を今のうちに着せたい…」等と四季折々の着物や浴衣など、私と一緒に楽しんでいたようです。関西には十三歳詣りという、成長した子をお祝いする行事がありますが、この時は義父と私とで意見がぶつかり、三日ほど口をきかなかった事が、何とも懐かしい思い出です。

 

今や娘が着た着物や帯を、孫たちが寸法直しをしていろいろな行事で着ております。洋服と違い、着物は寸法を直して、代々母娘と引継ぎながら楽しめる利便性が有難いと思うのと同時に、このように引き継ぐ事こそ家族のルーツが連綿とつながっている証ではないでしょうか。

現代は消費時代となり、「使い捨て」などと言われますが、断ち切る事の悲しさや寂しさを改めて見直して、「つながり」の大切さと、物への愛着を更に心がけようと思います。

私自身この七十年間、随分と無駄をして勿体ない事をいろいろとして来ました。

深く反省しております。

習い事の大切さ

新しい年を迎えても、引き続きコロナが収まらず不安な一年がスタートしました。

例年なら年末年始は毎年東北岩手のスキー場で家族みなで新年を祝っていますが、本年は京都でステイホームですから、久々に京都観世会の謡初式を、本年はコロナ禍のためライブ配信にて拝見し、一年の無事と稽古精進の誓いを致しておりました。

私が謡いの稽古をはじめたのは五十二歳の時で、仕事がひと段落して子供たちも社会へ送り出した時にふと…これからは自分自身を見つめ直す時間を持とう…と思いつき、それまで茶道と書道はお稽古して来ましたが、以前より興味があった謡いを本格的に勉強したい!…と一大決心のもと、町内で日頃から存じ上げている観世流シテ方十世片山九郎右衛門先生に入門することを決めました。
片山先生は私が京都へ嫁いだ頃はまだ可愛らしい小学生で、茶色のランドセルで通学していらっしゃいました。入門当日、町内の親しみから一変して師弟関係となり、私は居住まいを正して九郎右衛門先生に「お稽古を幾久しくお願い申し上げます。」と深々と頭を下げた時、ハッと、この一瞬の姿勢が人間として大切な型なんだ!と痛感しました。

私のように古希を過ぎれば世の中を俯瞰的に観る事が多くなり、面倒な事、言い訳をするような事、等はもうイヤ!もっと楽に生きたいと思う人が少なからずで、中には「この齢で他人に頭を下げるのはもうイヤ!」と断言する人もいますが、私はこの現実とは真逆で、高齢だからこそ改めて頭を下げて、自分を見つめ直す事で新しい人生の楽しみが見つかったのです。

学生時代、大嫌いで授業中居眠りばかりしていた古典が、謡いを始めてだんだんと文章に慣れて来ると、日本の風土、日本語の美しさや、日本人の心の機微の繊細さ等、心にジーンと浸み渡る感動的な文章が身体の中に流れ込んで来ます。
今日まで欧米文化に引きずられて来た我々日本人が見失っていた本来の日本的、東洋的感受性を取り戻したような気分となって、自分自身を見つめ直し、そして周りの人々を敬い尊く大切に思う心を習得出来ます。

能は難しく「理解できない…」とおっしゃる方が多くいらっしゃいますが、笛、小鼓、大鼓の三者のリズムが身体の脈拍に合わせて、曲の流れの中へ導いてくれます。
まるで母胎の中の鼓動のようで、だんだんと心地良くなり…心拍が落ち着き、大変興味深いリズムです。

師匠と対峙してのお稽古はビーンとした緊張感が健康の秘訣で、私のボケ封じと思い、これからも精進します。

私の生涯学習です。

齋藤織物(株)の設立

鴨川を挟んで河岸の桜や銀杏の並木が各々葉の色を黄々と変えて、秋から冬のつめたい風を受けて散って行く様子を観ると、コロナがこんな十二月まで続いてしまったのか!と…乾いた地面に落ちた葉と共に寂しさを感じます。ああ、このまま新年が来てしまうのかなあ…。そんな心境の中ですが引き続き人生の思い出を振り返りたいと思います。 

昭和六十年頃、日本の株価が四万円近くになりバブル景気の兆しが表れました。それまで「齋藤」は染め物だけを生業として来ましたが、着物と帯を同じ感覚で表現する事を強く主人が希望したので、袋帯製造会社を設立する事を決めました。

まず工房建築と共に手機の職人の手配と職人を指導する工房主任の選任と…思いの外、準備する項目が多く染物と織物とはこんなにも別世界、異業種なんだ…と痛感し、苦労苦難が山積して途中で挫折しかかる事が数回ありましたが、主人に「人を感動させる織物を創りたい」という強い希望があり、夢を求めて、当時バブル景気による不動産高騰で身分不相応な借金を背負う事となりました。会社が軌道に乗るまでは銀行返済に行き詰まり、夜中にうなされる事も多々ありましたが、何とか困難を乗り越え今に至っております。

その間には平安時代から江戸中期までの古裂復元や能衣装の制作、中国湖南省博物館所蔵品の羅の復元とか、袋帯以外の文化資料や、技術研究の蓄財を後世代に引き継ぐ事が出来て、主人共々ホッとしております。 

現在の西陣織業界は稼働率が悪く寂しい状況ですが、私どもの工房には若い世代の織物好きな女子職人が多く集まり、毎日張り切って元気に研究と技術の更新をしており、頼もしい限りです。

この工房設立で経験した事は新規事業立ち上げの苦しさ、難しさは勿論ですが、社会的責任を常に意識し、自身を見失うことなく強い「初心貫徹」の決意を持続することの大切さです。この意志の基盤となったのは、社是にありますが「我々の事業に参画する社員、職人の生活と心を豊かにする」という主人の信念でした。

人生、毎日の生活は常に二者択一を迫られ、寸時に進んで行かなくてはなりませんが、敢えて苦しい道を進めば、広く大きな自身の成長があると期待しつつ、人生楽しんでおります。