ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

女将思い出語り

日本伝統の習い事…「道」

現在世の中の習い事は多様化し、日本伝統のもの以外に外国から伝わったものも増えて、最近の子どもたちは親に手を引かれて忙しく渡り歩く光景を目の当たりにします。

習い事は人間の感性や、精神力の幅を広げるので良い事だと私は以前から思っておりますが、その中で特に日本の伝統的な習い事は全てに「道(どう)」という一文字が加えられています。

外国の習い事のように、技や点数を競い合うのではなく、華道、茶道、武道等、日本独特の心と身体を一体とした精神的鍛錬による意味があり、例えば茶道なら床の花一輪を観た時、一行の軸を拝読する時折、又、剣道なら両手で竹刀を一振り頭上に掲げた時など、その瞬時に「自身の心」を問う瞬間でもある為に、生涯終りのない習い事となるのでしょう。

私の実父は剣道八段を極めた人ですが、生涯一人になっても木刀を振り続けたおかげで、精神的体幹は九十四歳で亡くなるまで健全でした。

私も茶道を家元でお稽古させていただき三十年を過ぎようとしておりますが、まだまだ生臭い自分自身に「ハッ」と気づく事があるから、ゆっくりと流れる時空の中でしっかり「自身の心」を見つめ直し続けたいと鍛錬に励みます。

 

春を告ぐ…昔々の都をどり

最強寒波到来とかで、家に閉じこもり、古書棚を整理していると、何と大正五年四月の都をどりの演目本が出て来ました。目で追っていくと、祇園町が遊郭として成り立ったのは享保十七年と記され、幾多の困難を乗り越えて、お茶屋を中心に歌舞吹弾の技を観客に披露したのが、明治五年を第一回目とした都をどりだったそうです。手許の大正五年が第四十七回とされ、冒頭に湯浅半月(明治から大正の詩人、聖書学者)の都をどりを観る人の心得らしき文章が実に感動的で、観客はどうあるべきか…と説いています。まづ日頃よく働き、よく遊ぶ人である事で、日々忙しい人ほど都をどりを観に行く必要があるのだ…と力説しています。時間を持て余して、暇だから行こうか…というのは、美感が育たないらしいです。

この大正の頃は貸座敷(お茶屋さんのこと)が南北祇園町合わせて五百軒近く在り、舞妓芸妓等は二百人程で、更に加えて花魁太夫は十人ほど存在したようです。今からでは全く想像もつかない位の活気と盛況振りで各々が日頃から芸事の精進と時事の勉学にもつとめ、彼女達の本舞台である座敷に英知を披露したのでしょう。写真の中に四世井上八千代様の舞妓時代の華奢で可憐なお顔をみつけました。当時の中で舞は抜群に上手で、先代に見初められて片山家に嫁いだと聴いております。

旧築となった歌舞練場を唯今改装中ですが、大正の頃は重厚で、間口も広く、日本建築の技工の集結を感じさせます。現代のコンクリートに囲まれ無機質空間で生活していると日本家屋は生活活動を感じますね。このように明治から続けられて来た都をどりが、コロナ禍で二年開催されず、今春やっと開演される事となり、京都は、やはり都をどりと共に春がやって来るのだなあ…と再認識しました。

 

私はよく働き、よく遊ぶから、真先に都をどりを観に伺います!

私の古渡更紗帯

早いもので、かれこれ四十年ほど前に主人が古裂に興味を抱き、近所の骨董屋廻りを始めました。その頃は古裂に、さほど骨董的価値を見出す人が少なく、もっぱら茶道具人気でしたから安値で買い求められたので、徐々に収集量も増えて参りました。

そんな中で特にインドより渡って日本に入ったインド古渡り更紗が好きで「このままにしておくとボロボロに風化してしまう!」という危機感から、古裂を細かく切り石畳風に組み合わせ、更にそれらを象の糞で染めたインド木綿地の上に貼りつけて、一本の名古屋帯に仕上げました。主人にとって人生初めての作品となりますが、商品にするには未だ自信がなかったので、私の手に渡されました。

今に至り、一点一点の更紗を観ると、現代ではとても高価な古渡笹蔓等、古渡を代表するようなインド更紗が集結して一本の帯となり、宝物を身にまとっている感覚です。

私は日常、着物を着る時に「今日はどんな帯をしめようかなあ…」と迷う時に、いつも手に取るのがこの更紗帯で、草花の帯と違い、インドから大陸を渡って日本にやって来たこの異国情緒感が日本の着物にマッチして新しい雰囲気を醸し出し「いつものと違う私!」と気分が良いのです。

長い歴史の中で時間を乗り越えて来た古渡更紗…更に魅力的な古裂である事をそのつど再確認です!この帯は結城・紬のきもの、小紋、付下など幅広い着物にとても良く合い、満足!満足!です。