ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

女将思い出語り

春を告ぐ…昔々の都をどり

最強寒波到来とかで、家に閉じこもり、古書棚を整理していると、何と大正五年四月の都をどりの演目本が出て来ました。目で追っていくと、祇園町が遊郭として成り立ったのは享保十七年と記され、幾多の困難を乗り越えて、お茶屋を中心に歌舞吹弾の技を観客に披露したのが、明治五年を第一回目とした都をどりだったそうです。手許の大正五年が第四十七回とされ、冒頭に湯浅半月(明治から大正の詩人、聖書学者)の都をどりを観る人の心得らしき文章が実に感動的で、観客はどうあるべきか…と説いています。まづ日頃よく働き、よく遊ぶ人である事で、日々忙しい人ほど都をどりを観に行く必要があるのだ…と力説しています。時間を持て余して、暇だから行こうか…というのは、美感が育たないらしいです。

この大正の頃は貸座敷(お茶屋さんのこと)が南北祇園町合わせて五百軒近く在り、舞妓芸妓等は二百人程で、更に加えて花魁太夫は十人ほど存在したようです。今からでは全く想像もつかない位の活気と盛況振りで各々が日頃から芸事の精進と時事の勉学にもつとめ、彼女達の本舞台である座敷に英知を披露したのでしょう。写真の中に四世井上八千代様の舞妓時代の華奢で可憐なお顔をみつけました。当時の中で舞は抜群に上手で、先代に見初められて片山家に嫁いだと聴いております。

旧築となった歌舞練場を唯今改装中ですが、大正の頃は重厚で、間口も広く、日本建築の技工の集結を感じさせます。現代のコンクリートに囲まれ無機質空間で生活していると日本家屋は生活活動を感じますね。このように明治から続けられて来た都をどりが、コロナ禍で二年開催されず、今春やっと開演される事となり、京都は、やはり都をどりと共に春がやって来るのだなあ…と再認識しました。

 

私はよく働き、よく遊ぶから、真先に都をどりを観に伺います!

私の古渡更紗帯

早いもので、かれこれ四十年ほど前に主人が古裂に興味を抱き、近所の骨董屋廻りを始めました。その頃は古裂に、さほど骨董的価値を見出す人が少なく、もっぱら茶道具人気でしたから安値で買い求められたので、徐々に収集量も増えて参りました。

そんな中で特にインドより渡って日本に入ったインド古渡り更紗が好きで「このままにしておくとボロボロに風化してしまう!」という危機感から、古裂を細かく切り石畳風に組み合わせ、更にそれらを象の糞で染めたインド木綿地の上に貼りつけて、一本の名古屋帯に仕上げました。主人にとって人生初めての作品となりますが、商品にするには未だ自信がなかったので、私の手に渡されました。

今に至り、一点一点の更紗を観ると、現代ではとても高価な古渡笹蔓等、古渡を代表するようなインド更紗が集結して一本の帯となり、宝物を身にまとっている感覚です。

私は日常、着物を着る時に「今日はどんな帯をしめようかなあ…」と迷う時に、いつも手に取るのがこの更紗帯で、草花の帯と違い、インドから大陸を渡って日本にやって来たこの異国情緒感が日本の着物にマッチして新しい雰囲気を醸し出し「いつものと違う私!」と気分が良いのです。

長い歴史の中で時間を乗り越えて来た古渡更紗…更に魅力的な古裂である事をそのつど再確認です!この帯は結城・紬のきもの、小紋、付下など幅広い着物にとても良く合い、満足!満足!です。

中村吉右衛門丈の想い出

恐れていた知らせが入ったのが十一月二十八日深夜でした。中村吉右衛門丈が亡くなったのです。七十七歳の生涯でした。

昨年春にお会いした折に「八十歳になったら人生最後の勧進帳の弁慶を演じるのが楽しみなんですよ!」と腹の底から実に嬉しそうに、ハツラツと凄い情念を持って「勧進帳」への思いを語り、私も是非とも!是非とも!と拝見を期待し、あわよくば同じ舞台で孫の丑之助君が成長して義経を演じてくれたら、見応えのある舞台になるだろう…などと勝手な想像をしながらお話を伺っておりましたが…。

その後少しずつ体調を崩され、舞台を休演することも度々となり、不安と心配が続きました。

 

私と吉右衛門丈のご家族とは、菊之助さんの奥様となられた瓔子さんが小学一年生になったばかりで可愛い盛り、いつもお母様の後からそっと顔だけ出してじっと私を見つめるお姿も思い出しますが、それから今日までお着物等のお引き立てをいただきましたが、私的なお付き合いもさせていただきました。四人のお嬢さんたちが代わるがわる我家へ遊びにいらしたり、一緒に文楽を観に行ったり、又お父様の「鬼平」撮影の合間にご家族一緒に貴船や鞍馬山へお父様のナレーション付きで遠足したり、帰りの山路はみんな「キャッ!キャッ!」と賑やかに、騒ぎながら歩き回った楽しい思い出があります。

女性ばかりに囲まれた天下の「鬼平」もさすがに形なしで荷物を背負ったり、お嬢様方の後身を押して石段を登ったりと、満更でもない極上のお顔で嬉しそうでした。

 

中村吉右衛門丈は外見的に、確かに実像もその通りですが、体勢を崩すことなく寡黙で常に頭の中は舞台の事を考えていらして、初代がどのように演じていたか…等と熟考しておられました。その熱心さで私たち観客はどっしりとした重厚な舞台を拝見する機会に恵まれたのですが…。周りの人々を近づけさせないような硬派であった事も真実でした。

舞台以外の吉右衛門丈は実にシャイで京都へいらしても一緒にお食事をする人は限られていましたが、その中に私を加えて下さって、奥様と三人で度々、楽しく卓を囲めた事は、大変光栄な事でした。

話題は歌舞伎のお話は勿論ですが、絵を描くことがお好きで、鴨川の四季風景でお気に入りの場所とかを長々と饒舌にお話し下さいますが、私も興味深々なので何かと質問責めになると生来の生真面目な人柄なので全てに応えて下さいました。そんな時はふっと歌舞伎役者を忘れさせるような親近感で、接して下さいました。

とても学識が深く、物事を多面的に解釈して語って下さるので、実に勉強になる事が多かったです。

 

近年は舞台で使う小道具を自分好みに新調する為に京都へお運びになり、その折七年程前になりますが、当方主人に「俊寛の衣裳をつくりたいけど…」と依頼がありました。俊寛は時代考証上から平安末期からの柄でないといけないので、当方主人も時間をかけて四・五両(枚)の小袖を集め、それを更に切り継ぎ接ぎした後、繊維をボロボロに破れたり切ったりするのですが、やはり時間のかかるご依頼でした。

その後準備中に主人が病魔に冒され、続きに吉右衛門丈が入院と…各々が闘病生活となりました。二人とも健康を取り戻し、各々の道を再び歩む事を念じ、期待しておりましたが、主人が先に、そしてその一か月後に吉右衛門丈が西方浄土へと旅立ちました。大変口惜しく、残念な事でした。

吉右衛門丈の柩の上には、主人が俊寛衣裳用にと残した古裂の一両を棺掛布にして覆わせていただきました。

合掌。