ぎをん齋藤
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柳橋図

 

江戸時代初期、俵屋宗達や狩野永徳らが活躍した時代、もう1人の画壇の主役「長谷川等伯」とその工房で作られたのが「柳橋図屏風」である。

 

絵のモチーフは名前の通り柳と橋を様々な角度で表現した当時のヒット作である。和室だけで構成されていた町家、屋敷は屏風と言う間仕切り兼、装飾品を大いにもてはやしたらしい。現在の日本では、屏風は嵩張って敬遠されがちだが、海外の富裕層は屏風を全開した形で、壁面装飾として愛好する人達が多くいると聞く。

 

私は、その柳橋図を着物で作り始めている。結構大胆な構図になるので着る人を選ぶことは承知しているが、世間ではあまりこう言う着物を着ている人は少ないだろうから、かえって面白いのではないか?

 

「京都の八百八寺」と並んで、浪華の「八百八橋」と言われるくらい大阪は橋の多い街で、イタリアのヴェネチアのようであったとも言われる。東京には「柳橋」という地名も残されているが、粋な歓楽街として名を馳せた町である。遊郭の出入口「大門」の脇には「見返りの柳」が付き物で享楽的な匂いがする。江戸初期もこの時代くらいになると狩野派や土佐派が得意とする硬派なモチーフから離れ、世俗的、粋なものが描かれるようになった。それは購買層が武家から商家へと富の移動が起こっていたのではないだろうか。