先代の教え / 

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筆 : ぎをん 齋藤

人間の人間たる所以は創造にあり。

AI(人工知能)が登場するまで「創造」はコンピューターにはできない、それがコンピューターの限界とされてきた。

しかしAI(人工知能)が登場するや、音楽を作曲したり、絵を描いたりとコンピューターが人間の専門領域に侵入してきた。

私もAIが描いた絵を見たことがあるが、それらしく描いてあるが感動はしなかった。

音楽もそうだ、聞いたことのないメロディーで心地よいのだが心に響かない。

何故だろう?

AIが創ったという先入観が、そうさせるのか?

そうかと思えば子供が描いた稚拙な絵を観て感動する事がある。

生の絵はドーン!と心の中に入ってくる瞬間的な感動圧力が違う。

私がアートを目指す訳も、その「感動」を人に与えたいからである。

例えば、どこにでもありそうな「きもの、帯」は消費者に安堵感を与え、周りから浮いてしまうことを嫌がる女性心理には都合がいい、だから安心感はあっても感動はないのではないか。

いや、きものや帯に感動は不必要かもしれない?、、、と自問する。

私が思うに人間同士の心が響きあう共鳴現象がアートの実像ではないか?。

最近、超精密画像で襖絵を複製して展示する寺が多い、確かオーストリアの某美術館で展示されている絵が全て複製だった事もあった。

拝観した後に複製だと知らされると、騙されたような気分になってガッカリする。

いくら精密でもコピーはコピーではないかと思う反面、文化財保全の観点からすると日光や空気に晒すだけで紙や絵は劣化するのは確かだから、それなりの場所に保管したい気持ちもよくわかる。

しかしお金を払ってコピーを見るのはどうしても間尺に合わない。

そう言うとオーストリアの美術館は無料だったかなー?

と言うわけで、呉服屋がアートを目指す理由は見当たらないとの結論に至った、日本の染織を国際的に認知させたいという私の願望だけが私をアートの道を突き進ませると分かった。

筆 : ぎをん 齋藤