7月に入り強烈な猛暑の中、先日久しぶりに奈良は大宇陀にある大徳寺塔頭松源院 泉田玉堂老師を訪ねた。
失礼ながら随分と簡略するが、泉田玉堂老師は全国を歴訪し瑞泉僧堂で印可証明を受けた後、2012年大徳寺において
視篆開堂(してんかいどう)の儀式を行い大徳寺第五百三十世住持となった頂点を極めた高僧である。
そしてまた当時私が22、23歳、彼が松源院住職となったばかりの50過ぎの頃、1年間修業した経緯もあり
烏滸がましいが私にとっては第二の父といってよい存在でもある。
大徳寺の住持となられた今では、本来ならばそうやすやすとお会いできるものではない。
ご本人は至って自由自在、電話はあるがたまにしか出ず、連絡を取ろうにも中々うまくいかないのはわかっているので、
その日も私は何の連絡もせずに車で奈良まで走っていった。
さて、2時間ばかりの道中はあっというまで桜井から大宇陀に入ると景色は一変し、目の前には奈良特有の低い山々が
広がり、きつい山道を登っていくといよいよ松源院が見えてくる。
門柱には”毒語心経提唱”、または”拝観謝絶”と禅宗らしい気骨な文字が堂々と掲げられてあり、仏性とは何か!
容易にこの門をくぐってはならない!と言わんばかりの張り詰めた空気が肌に伝わってくる。
そこはたかが1年修行した身である私だが、大変失礼で無作法とわかりながらも堂々と大股で目の前の青竹をまたいで
入っていくと、分厚い戸を開け奥からいつものすばらしい笑顔で出迎えてくださるのである。
御歳80、体格は良く、眼光も鋭く、そこから放たれるオーラは光り輝き、二十歳の若者のように自由自在に動き回る
その活力はどこから来るのだろうと不思議でしょうがない、まるで本人だけ時間が止まっているかのようである。
その老師が問う、人は年老いていくものだが、では時間(とき)というものは元々あるのか、もしくはないのか、
答えてみよ!と。