ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

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2020年は革新の年?

いよいよ国民が待望する「東京オリンピック」の年、新元号「令和」2年目、新しい年、新しい時代の幕開けに相応しいビッグイベントが開かれる。オリンピック、パラリンピック開催はまさにその祝砲のようでもある。

「ぎをん齋藤」にも新しい時代の幕が上がりそうだ。

私は2020年7月末をもって代表取締役を退任し会長職に就任する事を決心した。満47歳で先代から社長職を拝命し、25年間 7代目店主として「ぎをん齋藤」を引っ張ってきたが、そろそろ後進に道を譲る時期に来たと思う。

振り返るとこの間、様々な選択と決断をしてきた。特にリーマンショック後、日本を襲ったデフレには手も足も出なかった記憶が強烈である。ただひたすらデフレの波が通り過ぎるのを体を小さくして待つ事しか出来なかった。

日本の近未来も「ぎをん齋藤」の行く末も明るい要素も多いが、暗い側面もある。こんな状況は今に限ったことではないが、政治も経営も舵取りする人間の力量次第である。先を見据え、現在の状況を分析し、足元を確認しながら慎重に前へ進んでいくしかない。

訪問着は死語に?

 

今月、雑誌の取材を受けることになっている。テーマは御所解について「ぎをん齋藤」の意見が聞きたいとの事、1843年から7代にわたって御所解を作り続け、「御所解屋」を自称する私には取材を断わる理由は何も無い。

その編集者曰く、訪問着という表記をしないで「軽い付け下げ」、「重い付け下げ」に変えたという。

そもそも訪問着と付け下げの区別を知らない人が多いせいかもしれない。「ぎをん齋藤」では家紋を入れるべき格式のきものを訪問着として他の付け下げきものとは区別してきたが、昨今の風潮では茶席以外で家紋を要求されるシーンは少ないと想像する。

そうなると「ぎをん齋藤」でも名称変更を考える必要があるのか?つまり時代が変わったのである。会食や観劇に紋付は仰々しすぎるので訪問着の出番が減ってしまうという訳である。

私のように時代に乗り遅れないよう注意している人間でも消費者のニーズを的確に把握できていない、「やはり歳かなぁー」とため息が出る。

以上のことを勘案すれば「御所解」は「重い付け下げ」に属するわけで出番が少ないのかなと心配されるかもしれないが、模様のつけ方で御所解の味わいを残しながら「軽い付け下げ」に仕上げることも十分可能である。時代に合った「御所解」を作るのが「ぎをん齋藤」の歴史の重さであり作り手の腕である。

春の京都展

 

花見気分の中で「春の京都展」がスタートした。

土曜日までの1週間は一見客も大歓迎で京町家のたたずまいと、新作のきものや帯をご覧頂く企画である。同時に一堂に展示して私自身の品評会でもある。

出来のいいものに満悦し、イマイチなものは再度加工に出して改良する。今回は特に「摺箔帯」15本展示して自らの反省会としている。試しに営業のスタッフに好きな摺箔帯を選ばせたが、7人7様で結論が出ない。それほど人の好みとは顔が違うのと同じで様々だと言う事だ。

此処、祇園は外国人観光客で溢れている。馴染みの寿司屋は粋な設えと一見客お断りのはずだったが、今では外国人用に一律料金を導入、割烹着を着せて記念撮影までサービスを提供している。粋な大人の社交場、祇園が映画村のようになるのは私は反対だ。しかし行政は建物の高さ制限を緩和して観光客向けのホテル化を推し進めようとしている、これ以上独自の文化が薄められるのは許せない。

「消費者のニーズ」が大切と言われて久しいが、世の中がだんだん薄っぺらいものになっているのは「消費者のニーズ」に迎合しすぎた結果ではないか?政治の世界でも「ポピュリズム」が台頭する昨今には私は反対だが、かと言って「武士は喰わねど高楊枝」ともいかない。難しい問題である。