ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

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70周年京都展の盛況御礼

10月5日まで開催していた70周年京都展は無事盛況のうちに終えることができた。

ご支援、ご来場頂いた皆さに厚く御礼申し上げます。

天候にも恵まれ担当の大城君も雨男の汚名を返上することができた。

万歳!今回の成功の原因は天候だけではなく、記念品への答礼ともとれる。

季節柄少し肌寒いと思った時に便利なものだからタイミングが良かったのかもしれない。

東京の会に向けて関東のお客様へは11月からお送りする予定だ。

未だ正式な集計はできていないが、昨年の倍近くの売上を達成できたのは勇退する私へ花を添える嬉しい思い出となろう。

来年、71回からは心機一転、社員達による発案展示会と変貌していく。

果たしてどんな会になるやら心配だが、いつまでも私が先頭で旗を振ることはできない。

洗練された美意識、お客様のニーズ、適正な価格、これらを忠実に守り続けることが肝要である。

その結果「ぎをん齋藤」は和服文化の保守本流であリ続けるというプライドを大切にすることだ。

行儀、作法がマナーへ

マナーを辞書で引いてみると「行儀、作法」とある。

そう、同じ意味である。

しかし現代の生活においてはマナーの方がスンナリ耳に落ち着き、

「行儀、作法」といえば堅苦しく聞こえる。

やはり現代の生活は和から洋への変化が定着したように思える。

行儀、作法といえば畳の部屋での居住い、所作をイメージするが椅子、テーブルが一般的な現代生活ではマナーがふさわしい。

つまり行儀見習いとして若い女性が茶道をたしなむ時代は過ぎてしまったらしい。

衣食住のうち「住」の変化が「衣」や文化に与える影響はかなり大きい。

例えば、江戸時代初頭まで身丈が短い小袖が「衣」の中心だったものが江戸中期以降「畳」の普及によって身丈の長い「裾引き」が上流階級での主流になった。

それが現代の芸者姿になったと言われている。

新築の家から和室が消え、茶道が下火になったのも椅子、テーブルの生活には畳での居住い、所作の修練は不要だと思われているに違いない。

とかく人間は楽な方へと移り変わるのは致し方のない事実である。

 

では和文化の復権はあるのか?

残念ながら矢張り一部の愛好家のものとなるであろう。

物の本質が見える

危機的な状況に追い込まれていると物の本質が見えるようになると感じている。

まず第一に美的なものに敏感になる。

私が摺箔の美に気づいたのも、今の病気を患って生死を迫られていた時期である。

大きく変わったのは、これなら大丈夫と思った人を信頼する気持ちがグーッと大きくなり、何よりも自分自身の運の強さも確信できるほど強固になっている。

織田信長や豊臣秀吉など戦国時代に生きた人たちには無縁とも思える審美眼が、なぜ備わっていたのか不思議でならなかったが、今ようやく彼らが今の私以上に生死にかかわる窮地にあったからだと気がついた。

平常な時は物を見るにしても雑念が靄か霞のように物の本質を隠してしまう。

戦さ戦さに明け暮れて敵陣めがけて先頭に立って突進す日々が続けば、おのずと雑念も晴れ、純粋な目で物を見る、その眼に映る映像は虚飾も誤魔化しもないピシッとピントの合った実体が写っていたに違いない。

それが桃山時代の美術品の特徴的な共通性である。

先日、杉本博司さんに屏風の引き渡しを行った。

彼もまた物の本質を捉えられる1人で目利きと呼ばれる人のひとりである。