ぎをん齋藤
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心配になる西陣織の近未来

コロナ騒ぎは国内的には鎮静化の方向に向かっているが海外、特にアメリカ大陸の感染拡大が気にかかる。

ここではっきりしてきたのは海外では感染の拡大と同時に経済活動を認めるという認識の違いである。

日本は人に優しいが海外では元気な人だけが生きて仕事をすればいい、と割り切っているように見える。

さて今日のタイトルである「心配になる西陣織の近未来」とどう関連するかといえば、この業界はあまりにも産業として人同士の交流が少なく閉鎖的であるから感染者が増大することはないだろうが仕事の減少による廃業は拡大しそうである。

西陣織と言っても職種は広い。

京都府下の丹後地方で下請けの織屋も含めて帯、法衣、ネクタイ、室内総称用の布、織着物、はてはお相撲さんの「まわし」

まで絹を使った織物は全て西陣織と言ってもいい。

どれをみても産業と呼べるほどの規模は見当たらない。

現在でも帯の生産者が一番多いのだが家族で織っているだけの零細なところがほとんで産業と呼べるのか微妙である。

我が「齋藤織物(株)」のように若い女性が何人も現代的な工場で集約的に生産している会社組織はまず無いと言っても過言ではない。

この状態を作り上げたのは西陣織の1000年の歴史と改善に対する不努力だと思う。

今回のコロナ禍は時代の流れを5年加速させたと感じる、将来を見据えると零細な織屋の廃業は加速するであろう。

それを食い止めるにはこの産業に携わるすべての人の意識を変革する必要がある。

複雑すぎた流通機構を簡素化する、ただし一足飛びに作る人がインターネットで直接消費者に売るという短絡的な発想ではなく、物の価値を消費者が理解できるよう透明性、信頼性のある体系を業界が構築していく必要である。

コロナ禍の銀座展示会

やるか止めるか、散々討論した末の開催決定である。

会場の「銀座かねまつホール」にも他から申し込みが殺到しているので日程のわがままは通らない。

結局7月17、18日の両日に展示会開催が決まった。

私は勿論、留守番役だがきっと会場の様子が心配で落ち着かない日々を過ごすことになりそうだ。

新作は「羽衣」と名付けた透けた「紗」をベースにした生地を二枚重ねた全く今までにはない新しいコンセプトの薄物である。

2年ほど前から試作を試みてきたが希少な生地で試作もままならない状況だ。

また「御所解」を現代の色合いで染めた新作や「摺箔」の新柄も出来が良い。

予想もしないコロナ禍でも「ぎをん齋藤」は職人の生活を守らなければならないが、かと言って何でも仕事を出してやればいい訳ではない。

視界不能な現況下で考えられる全ての中から最善と思われる手段で対応していくしかない。

会場での感染防止の方法や人数制限をどうするか?など担当する田中も戸惑っている。

私などは所詮「なるようにしかならない」と承知しているが、そこまでスッパリと腹を決めるのは若い人には難しい。

まあ気分転換に銀座にお出かけの方は是非お立ち寄りください。7月17、18日です。

人生を考える

毎日続ける1時間の散歩で考えるテーマは「自分て何者だろうか?」が一番多い。
勿論日々の生活の問題や悩みも考えるが、自分の人生の過去、現在、未来について考えることが多い。

そもそも「齋藤貞一郎」という名前を与えられた人間として生まれたのは勿論この世の偶然であったろうが、自我に目覚め、自分以外の人間と比べることができるようになってから、余計に「自分て何者だろうか?」と考えること多くなった。
歳を加えるほど、その疑問は大きくなり一向に答えから遠ざかるような気がする。
日本人として生まれ育つ中で生き方や美意識が備わり、知らず知らず特性や短所が身に付いてしまう。
同じ日本人と言っても育つ環境は大きく違っているのだから人それぞれの見方、意見が異なるのは当然である。
ただ遺伝子が近い配列になっているのだろうか?同じ国民どうしの「阿吽の呼吸」というのはあると思う。
我が国は飛鳥時代の昔から仏教立国を目指した時から人は死んでも「輪廻転生」、何かに生まれ変わると信じられて来た。
ただ功徳を積んだ人だけが輪廻転生を免れ極楽浄土で永遠の安らぎを得られるというのである。
故に自分が来世、鳥や虫や草花に生まれ変わるかも知れないから、優しい目で生き物を見るのが当然であったような気がする。
森羅万象、命のあるもの全てが「和をもって尊しとする」という聖徳太子の言葉は日本人の精神的支柱となったと思う。
この調和精神は優柔不断と誤解され欧米から指摘され糾弾されることもあったが、西洋式の「All or Nothing」が良いのかというと私は決して良いとは思わない。
話の方向がずれてしまったが私にとって過去、現実は理解しているが死後の世界に興味があるのだろうか?
身体は灰になっても魂、思念は生き続けるのか?
何か宇宙全体を秩序づける法則があるような気がするが死んでみないと分からないという事だ。
昨日の散歩で見かけた川で無心に遊ぶ子供たちに幸あれと祈る思いだ。