ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

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私の「ソワレ」(夜会服)コンセプトは間違っていたかもしれない。

そもそもソワレを始めたわけは、夜会服として従来の友禅染めの吉祥模様よりも、より都会的に洗練されたものがふさわしいと感じて西洋のジャポニスムに題材を求めたが、それは間違いであったかもしれない。

 

きものの柄行きは着る環境に大きく左右されるものである。例えば茶席で着るものなど和の文化に取り囲まれている場所で着るものと、モダンなシャンデリアの下で同伴者がタキシードなどを着るシーンでは、自ずと柄や雰囲気が違うものが必要とされるはずである。

 

 

きもの本来の凛とした美しさから逸脱し、「着易い」「手軽」という合理性が優先する昨今のきもの事情で保守本流を自認する「ぎをん齋藤」は、あくまでもクラシックモダンを守り通したいとの思いで、敢えて江戸クラシックから離れてジャポニスムをテーマに試作を試みてきた。しかし、イマイチしっくりこなかったのも事実である。

 

最近、桃山着物に一層傾倒して深く美意識を探求するようになって、大航海時代到来以前の桃山期の黄金色がいかにソワレに相応しい国際性、周りの環境を超越した美しさと力強さが存在していたか、改めて再認識させられた次第である。

 

「御所解屋」ぎをん齋藤の主人が御所解より桃山着物が素晴らしいと公言するのは矛盾する様にも取れるが、通底する美意識は共通である。優れた素材と熟練した職人の技を必要とするから、高価なものになるのは仕方ない。しかしこれを押し通す力が無ければ、「きもの」は洋服に飲み込まれて消滅してしまうだろう。

大好評「摺箔」シリーズ

少し前になるが、黄金色が時代の主流になるとブログに書いてから「摺箔」の染物に着手し始めたのだが、現在、作るものがハジから売れるほどの好評ぶりに自分でも驚いている。

この「摺箔」をやってみようと決めたのは、私のコレクションに一枚のサンプルがあったのが理由である。その裂は10年ほど前に入手したのだが、眺めてみても良さが理解できず「買い損ねた」と後悔した一点であった。

 

時代は桃山時代の作だが肝心の辻ヶ花染めが不出来で、絞りと絞りの間に摺箔が施されていたが、感心しない作品と評価した。摺箔の金箔は当然、純金を使用しているので申し分はないが、線描きがいかにも稚拙で、これは技術の劣る職人に無理やりやらせたものだと思い、長い間、壁に掛けっぱなしにしておいた。

それがある時から妙に気になる存在になってきた。さらに眺め続けると、なんとも言えない桃山時代独特のおおらかでゴージャスな名作だと気付いたのである。

 

それ以来、試作に試作を重ね、昨年の師走展に2点出品したところ完売したので、六月展では3点出品したが完売。自分でも自信が付いてきたので現在、「これぞ摺箔」という豪華な作品3点に着手している。この桃山摺箔の良さを知る人は少ないと思う。なぜなら遺例が非常に少なく、私が調べたところでも10点余りしか確認することができなかった。

 

桃山時代の匠達も、常に新味をもとめて、試行錯誤を繰り返したのだと思うと他人ごとではなく、親しみを肌で感じるのである。

唐代裂への挑戦

私の布の歴史をたどる旅も7世紀の「唐」時代へと遡り、いよいよ終着点が見えてきた。

 

唐は玄宗皇帝や楊貴妃などビッグネームが登場する華やかな時代であった。シルクロードを三蔵法師が踏破し、天竺(インド)から仏教の経典を持ち帰り、中国に一大仏教ブームを巻き起こした。この流れから日本も時の権力者、聖徳太子の力によって日本に仏教を定着させることとなる。

染織的にも唐はシルクロードを経てペルシャの影響を受けながら織物を大成し、経錦(たてにしき)しか無かった時代から緯錦(よこにしき)を完成させ、多色の織物を大量に織り上げる技術を確立した時代でもあった。

この歴史が現在の西陣織の源流となって私は生活の糧を得ているのである。こう考えていくと、一般的な教養としての知識ではなく多くの社員を巻き込んで営んでいる会社の底辺であり、それを踏まえずに前には進めないのである。

現在制作中の唐代裂は、生憎ながら入手したものではなく「新疆ウイグル自治区博物館」に収蔵されている品で、しかも経錦(たてにしき)の織物である。この時代まで古いものを一般人が入手することはほぼ不可能で、ロンドン辺りの古美術商では時々売り物が出るらしいが手の出せる金額では無い。また経錦(たてにしき)で復元するのもほぼ不可能な代物である。