ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

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人生、夢の如し

私と家内は金婚式まで、あと2年足らず。

50年という長い年月を寝食共にしてきたことになる。

いろんなことがあったが、私の記憶は骨髄移植の際、病院の医療過誤のせいかどうか確かではないが、

記憶が途切れ途切れの状態で、50年前の新婚当時となると記憶は全く不確かである。

7代目を引き継ぎ「齋藤」の名前を次世代に引き継ぎたいとの思いは確かにあったが、

父や叔父の仕事に対する姿勢に不満も強かった。

それもこれも50年という年月は長い夢を見ているような気分である。

豊臣秀吉も「浪花ことは、夢のまた夢」と言ったと言われているが、さもあろうと思われる。

一体人生て何だろう?

生まれて自我に目覚めた時から、なぜ生まれたなどと考えたことはない。

ただどう生きていけば良いのか悩む毎日が現在まで続いているだけである。

そして突然「齋藤さん」そろそろ、ご苦労様でしたと言われて、全く未知の死後の世界へ連れて行かれても困る。

ただ私の場合は「ぎをん齋藤」七代目の役割を無事果たせた満足感はある。

仕事の上ではまだまだ「古きを訪ねて新し物を作る」気力はあるが体力がついていかないだろう。

職人と世相

「歌は世につれ、世は歌に連れ」という諺がある これは歌に限らずファッションの世界、着物の世界にも通じる。

昨日、着物専門誌を眺めて感じたことは、いわゆる訪問着風の裾模様が現在少なくなって、

小紋や簡単な付け下げのものが主流として取り上げらている。

ということは消費者のニーズはそのあたりにあるということだ。

確かに女性の集まりにあまり豪華な裾模様を着ていけば仲間から浮いてしまうだろう、

と言うデリケートな感性が働く気持ちもわかる。

我が家の昔の作品写真を見ても、どれを見ても一枚の日本画のように立派な訪問着が写っているのに改めて驚かされる。

現代の着物のように流れが変わってしまえば、下絵の職人自体の必要性がなくなってしまう。

世の中に着物ファッションを生み出すのが我々の仕事だから世の中の動きをよく観察し時代の流れを読み取る事が重要である。

日本人女性の多くが着物ファンである事には違いはないが、世相に合わない着物はセンスの良い人ほど身につけない。

消費者も職人も真剣だ。

その中間にあって時代の空気を消費者に伝え作るのが私の仕事である。

ゆえに正しく伝えなければ職人は仕事をなくし消費者を着物離れをする。

美しい布

美しい布を求め続ける私。

ふと私は着物が好きで飽きもせず染めたり織ったりしているのだろうか?と立ち止まって考えてみた。

しかしどんなに気に入った着物ができても自分で着ることはない。

女性をきれいに見せるために考案し悩んだり喜んだりしているだけである。

それで得たお金で私の家族や社員とその家族と職人の生活が成り立ってきたのだから、

立派に世間に自慢できる話である。

要するに私は着物が好きなわけではなく「布」が好きな人間だと合点がいった。

世界中の古いものから新しいものまで美しい布を見てきたたが、日本に勝る布はない。

日本人の本来持つデリケートな感性か四季の変化がもたらしたものか、

遺伝子に組み込まれたデリカシーか非常に細かいところに神経を行き届かせる能力が日本人に備わっていることだ。

ところが最近の多くの若い女性は深い所のデリカシーに欠け短絡的な判断で済ませてしまうのでは無いかと心配する。

物を深く見ないで直感で「かわいい」で判断する。

また、らしく見えるように作り方がより巧妙になってきた。

コンピューターを駆使してどんなに複雑な構図の物でもそれらしく作り上げてしまう。

その巧妙な作品に飛びついてしまうと、並んでみるとどれもこれも似たり寄ったりの物が並んでしまう。

時代がそうさせるのだから文句を云ってもしょうがない、時代と共に移り変わっていくのが世の常である。文化的には最悪だ。