ぎをん齋藤
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本疋田が摺疋田へ、染めが印刷へ

江戸時代中葉から本疋田(本絞り)は少なくなり摺疋田へと移って行く。その理由は定かではないが二つのことが考えられる。

一つは幕府によって贅沢禁止の御達しが度々出され、そのやり玉に挙がったのが鹿子絞り(本疋田)であった。一目一目絹糸で絞って染められる技法は贅沢の象徴とされ、摺疋田へと移ったと考える。

もう一つの理由は需要の増大とコストダウンではないかと推測する。この頃になると多くの婦女子が絹の着物を着るようになり、平和を背景に需要は増大したに違いない。この需要に応えるには摺疋田は最適な手段であった。

これを現代に例えると染友禅が捺染、及びインクジェットによる印刷へと変わろうとしている。この変化の理由も安価な着物の需要増大にある。

絹の素材価値よりも化繊による安易なきもの姿に憧れる女性心理が原因して悪貨が良貨を駆逐する現象が起こっている。

これも時代の流れ、諸行無常と言ってしまえば、それまでだが、きものの歴史を知る者にとっては嘆かわしいとしか言いようがない。きっと江戸時代の絞り職人なども往時の変化を嘆いたに違いない。

かくて歴史は古き良き物を流し去り、それに拘泥する人間は時代から取り残されるのである。

「布の道標」展が無事閉幕

6月17日に開幕した「布の道標」展が過日8月20日、無事に終了した。

期待と不安の中、スタートした展覧会であったが終了してみれば 10,000人の来場者があり30,000円もする図録が30冊も売れるという予想外の成果報告を受け、満足感と感謝の気持ちで一杯である。改めて細見美術館の関係者の皆様にお礼を申し上げる。

終わってみればアッという間の出来事であったが準備段階では「裂」だけの展覧で来場者が少ないのではないか、真夏の開催で暑さから出足が鈍るのではと心配していた。

私自身、この展覧会を振り返ってみると、時代の風雪に耐えて現存する裂の尊さと先人達の匠の技、意匠に対する熱い思いが改めて心に響いた、と同時に気付くのは500年を境に、それ以前の染織品の存在が難しいことだ。

今でこそ平均寿命80歳などと云われるが、人生40年と云われた時代が長かった歴史からすると500年、12世代の意味するものは大きい。

更に1200年という奇跡的な年月に耐えてきた正倉院御物は人類の宝物である。

Signature誌

ダイナースカード会員向けの季刊誌「シグネチャー」に現在開催中の細見美術館「布の道標」展を紹介する記事が掲載されている。

ライターのH女史は染織への造詣が深いとみえて「綺羅星、、」に使われている「綺」や「羅」が織物の名称だとご存知であった。

「羅」は現在でも織られているが「綺」は正体不明の織物である。明時代に書かれた「天工開物」には得体の知れない織物がいくつか掲載されていて、当時の中国がいかに高い技術にあったかを示している。

12年ほど前、中国、湖南省にある「馬王堆遺跡」から発掘された「羅」を現地調査し、復元した経験があるが、細い糸が使われていた羅織が紀元前1世紀のもとは及びもつかない精緻なものであった。

織物後進国であった日本は8世紀をピークにこれといった技術は開花しなかったと推測できるが、その訳は謎である。逆に中国では刺繍以外の染色品が発展しなかったのは染めに必要な良質な水が得られなかったのではないかと想像している。