ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

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「徹すれば通ず」

物作りの要諦がこの歳になって少し分かりかけてきた。

若い頃は物が見えず「いいもの」か「悪いもの」かの区別がつかず、不安を抱きながら手探りでものを作ってきたと記憶する。例えば職人の技量が計れず、工賃が適切かどうかの判断ができないまま指示してきたような気がする。

結局、売れたものが「いいもの」で売れなかったものが「悪いもの」だという変な結論がでてしまった。それでも物作りを止めずに現在までどうにか継続してこれたのは幸運であったとしか思えない。

ようやくこの数年、自分が「これだ」と思ったものに徹して作っていく姿勢が人の共感を呼び起こすもとになっていると気付くようになった。

つまり「徹すれば通ず」なのである。逆に特定の人に気に入られようとして作ると魅力を失うことになる。

昨今の風潮で消費者のニーズに応じて価格設定をして物作りをすることが大切だと声高に叫ばれ、その結果、似たよう物が似たような価格で販売され総じて個性的で魅力のあるものが少なくなった。私など巷で売られているもので、どうしても欲しいと思うものが少ないのは寂しい。

昨今の情報過多時代に販売力だけで生きていくのは難しく、自己の主張をはっきりさせて、物作りをし、しかも徹することが大切なことであろう。

展覧会への偽らざる気持

6月の古裂展観まで一月余りとなり、展観作品の打ち合わせを細見美術館と行なっている。

古裂は全て陳列するが、他にも古裂を利用した現代のきものや先祖が残した「神坂雪佳」肉筆のきもの下絵、作者不明の墨絵などを、どう展観するか学芸員の腕の見せどころである。

実のところ私自身は今回の展覧会を光栄に感じると同時に、反面おもはゆく思っている。

40年余かかってようやく蒐めた私の汗の結晶であり、分身のようなものを皆様にお目にかけるのは皆様の前で裸になるような、そんな気恥ずかしさが先に立つ。

これと同じ気持ちを抱くのは、ぎをん齋藤のきもの、帯を身に付けたお客様と会ったときも同じである。別の例えにすれば、自分が書いた文章を読むのは鏡で自分の顔を眺めたような気分で照れ臭い、きもの、帯を見せられると私の人間性をさらけ出したようで恥ずかしくて冷静ではいられない。

こんな事を感じるのは私だけだろうか?想を入れ込んで一つ一つ作る作業は自分の分身を作る作業なのだろうか。

「海北友松」展を観る。

京都国立博物館で開かれている「海北友松展」は地味な作行きが多いせいか、大した混雑はなく、観る側からすれば有難い。

海北友松の絵は一言でいうと「力強さ」である。狩野派に学び、後に宋画、特に「梁楷」の影響を受けたものか、作品の多くは墨一色で描かれ力強く荒削りである。最高傑作は建仁寺本堂に描いた「雲龍」で桃山時代特有の豪胆さにあふれている。

多くの作品の中で私が着目したのは屏風の下地、グラウンドの表現である。

金を巧みに利用し淡い墨と金泥、金箔を併用して絵に奥行きを表現している。この手法が狩野派の影響なのか伝統的な大和絵の手法なのか私には分からないが、少なくとも中国の水墨画には見られない手法であり、私のきもの作りの大いに参考となった。

他にも全体を墨で描き一輪の春草だけを彩色して視線を集める手法や、「貼り付け扇面散らし」は、別に描いた扇面を屏風に貼り付けるなど「ぎをん齋藤」の得意とする「切付け」と共通するのもおもしろい。

作品には秀作、力作、愚作など優劣ができて当たり前だが、友松が晩年に描いた一連の作品は力強さに欠け「手が枯れる」というよりも「気力に欠ける」平凡な作品になったと観た。