ぎをん齋藤
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摺箔梵字「観世音菩薩」

作品番号#4の「摺箔梵字」額装が仕上がった。

梵字とはサンスクリット語で古代インドで用いられた言語である。

今回の文字の意味は「観世音菩薩」、私の守護菩薩である。

まだ仏様になる前の修行僧のような身分で、

人の痛み、苦しみを取り除く役目をする為に阿弥陀仏より差し向けられるとされている。

仏教では仏の世界で頂点に立つのは「大日如来」でその身代わりが「阿弥陀仏」とされている。

よく知られている「南無阿弥陀仏」の「南無」はサンスクリット語の「namo」を漢字に当てはめたもので「あ〜」という意味である。

死後の世界で大日如来が座す極楽浄土へ行く為に人は修行をしたり、お題目を唱えるわけである。

また、いわゆる「お迎え」が来るというのは、「観世音菩薩」が死に瀕した人を極楽へと迎えに来るというストーリーである。

信じてもらえないと思うが私の体に「観世音菩薩」が入っていると感じている。

こんなことがあった。

去年入院した時に内視鏡が食道を通らなく、一度拡張して一週間後に再度、内視鏡を医師が試みた際、

私は胃の中から内視鏡が胃の噴門部から入ってくる緑のライトを見ていた。

内視鏡を逆視し、モニター画面を眺めていた医師が「入った、入った!」と、

二度叫んだのを後日、その医師から確認したら驚いていた。

それは兎も角、

今回の#4は蓮の花の上に座す「観世音菩薩」梵字の額装作品である。

60cmx70cmとやや大きい目の額である。

屏風では大きすぎて使い勝手がよくないと指摘されそうなので額装に挑戦したのだが予想以上の出来に満足している。

杉本博司氏入洛

彼はどういうわけか「何かをしようとすると何かが起こる!」不思議な運命の持ち主である。

私は彼のことを「嵐を呼ぶ男」(石原裕次郎主演の昭和の映画)と呼んでいる。数年前横浜で「三番叟」の公演を開催した折は

大雨警報発令でJRがストップし大勢の人達がチケットの払い戻しを余儀なくされた。

今年の春は京都で初お目見えの「杉本博司祭」をみんなで盛り上げようと思ったら

新型コロナウイルスで個展も開催が遅れ「三番叟」も延期になった。

今回は時間があったので久しぶりに彼と話したが、

私は声がかすれる、彼は耳が遠い、という訳でなかなか話が前に進まない。

全く歳はとりたくない!

作品の話や古美術の事など話は尽きないが2時間ほど話に花を咲かせたのであったが、

彼を出迎える為に新作「金銀摺箔日月図」を店先に広げておいたら、彼はそっちが気になって話に身が入らないようだった。

最後に細見美術館に移動して

「金銀摺箔波濤図」屏風をバックに2人で雑誌掲載写真を撮影して打ち合わせは終了、

コロナウイルス騒ぎの中でも杉本さんの表具、古美術を観ている時間はひと時の安らぎの時間であった。

作品番号3「金銀摺箔日月屏風」が完成

私が特にこのモチーフにこだわったのは「太陽と月」、「陽」と「陰」とも例えられるが、

この世に男と女しか存在しないことから見ても、この世の成り立ち其の物とも取れる。

宇宙の誕生は「ビッグバン」と呼ばれているが太陽系の惑星が誕生した時に地球も誕生し、

地球から月が惑星として誕生したと教わった。

そんな物理的な物体としての興味ではなく、毎朝、東の空から昇る太陽は神として崇められ、

日本では「天照大御神」として八百万の神を支配する絶対神となった。

一方、月は夜空を照らし夜を支配する神である。

その両者を「日月」として人類は崇拝してきた。

その精神性を作品としたいと考えたのである。

私を含めて全ての生き物が肉眼で見た空に浮かぶ不思議な球体であったはずだ。

「七曜星」をテーマとして「摺箔」の作品を作ろうとした際に最も力を入れて作りたいと決めたのがこの「日月」である。

 

そして、ご覧の通り予想以上の迫力と威厳が備わった屏風として完成した。

寸法は前回の「波濤図」とひとまわり小さい「利久形」と呼ばれるサイズで高さ約170cmである。

私はこの作品で「伝統工芸展」に自信を持って出品し、審査を受けようと思っている。

「摺箔」という古い技術を現代に活かし「桃山時代」がこんな素晴らしい技法を産んだ時代であったことを知ってもらいたいと願っている。