ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

女将思い出語り

主人の美の追求

国民と共に大戦を乗り越えて日本に再び平和を取り戻して下さった昭和天皇が、昭和六十三年秋より御体調を崩され、私たちは一喜一憂の中、年明け正月早々に崩御されました。とても国民に愛され、慈しみ深い昭和天皇の御顔を思い出します。

元号は平成へと移り、我家も祖母、義父と続きに亡くして、いよいよ主人の着物づくり時代に入っていきました。

当時主人は日常の業務終わり、午後三時頃から北山の資料館へ通い、染織についての美術史、古書等の勉強をして帰宅が夜七時頃になっていました。そんな日課の繰り返しの中、資料館の事務職員の方が主人の熱心な姿に共鳴して下さり、カメラを持ち込み美術本や図柄等、資料の撮影の許可を下さいました。

閲覧には時間的に限界がありましたので、大変有難いご厚意でした。その当時は給料に余裕がなく、美術本を思うように買い求める事が出来なくてさぞ、主人は情けないと自責の念だった事でしょう。写真・ファイルを見ながらの自宅での染織の勉強は深夜まで続き、だんだんと自身の作風の基礎が出来ていったようです。

現在まで連綿と引き継がれて来た染織品にはそれなりの「美や格調」があり、その中で主人がどこに焦点を合わせて着物づくりするべきか…を確認して来たのですが…その為、本や写真では物足りなくなり、実物の古裂を手に取って益々の研究に移行しています。

生来が凝り性なので、古裂の蒐集に没頭していきました。その為に日曜、休日は博物館、美術館、神社仏閣を歩き廻るのです。休日くらいは子どもの面倒をみて欲しいと思いましたが、私の思惑は外れ「イラ!イラ!」としましたが、そこは「ガマン!ガマン!」と頭をクールダウンさせて店の雑務に追われました。

今思い返せばその雑務処理の中に大事な事柄が沢山あったように思います。広い範囲を観る「目の力」みたいな…

 

 

義父の商い

義父の思い出はたくさんありすぎて何から書いたら良いか迷うほどです。実に個性的な人でしたから…

生涯を着物で通した義父は祖母に対して大変忠実で、信心深く、倹約家(京都ではしまつ家と言うけれど…)、質素、生真面目で温厚な性格でした。しかし仕事に関しては厳しく、祖母に続き商いについて教授してくれたのが義父でした。

 

義父の毎月上旬の仕事ぶりは、あの細い身体で、風呂敷に包んだ反物荷物を肩に一つ、腕に一つ持ち、大阪、神戸方面を阪急・京阪電車を乗り継ぎ出かけます。

その当時の義父らしいエピソードですが、ある真夏の暑い日の夕方、義父は京阪神を廻り、帰路京阪三条駅に着いたとたん、体力が尽きて反物をかかえたまま倒れました。主人が連絡を受けて迎えにいきましたが、義父は朝からかき氷一杯しか食べていない…との事。仕事好きも良いけれど、ここまで来ると可哀想やら、また何と不器用な事かと、つくづく同情したことを鮮明に覚えています。

中旬は東京へ出かけ能楽、地唄舞関係の方々にお会いして二泊ほどで帰って来ます。常宿は東銀座東急ホテルでしたが、現在はもう建物が残っていません。着物姿の義父はホテルのドアマンが覚えてくれていて「お帰りなさい!齋藤さん!」と声を掛けてくれるのがとてもお気に入りだったようです。その頃の新幹線は片道三時間四十分もかかる時代でした。

 

下旬になると義父の苦手な伝票書きで月末を迎えるのです。常々義父は私に「仕事は楽しくしなくてはあかんよ!」と言うのですが、私は唯ひたすらお客様に買っていただく事のみに気合が入っていました。しかし義父の言う通り、それでは楽しくないのです。それで義父の商い振りを観ておりますと、接客中の義父が「楽しくて仕方ない!」と満面の笑みで、なぜだろうとさらに観察していると、お客様との世間話等で心が弾んでいるのです。

そんな空気感の中で義父はお客様の一番似合う着物の地色から商いに入ります。会話の中で「あんたはんには、この色が一番似合わはります!」と言い切り、以前お求めいただいた品々との組み合わせを提案しておりました。お客様のタンスの中身をすべて記憶しておりますから、お客様も安心して下さったのでしょう。「品物は値段ではなく、安くてもその人に一番似合うものを選んであげなあかん」というのが義父の口癖でした。

 

義父は昭和六十二年五月、七十二歳にて闘病の末亡くなりました。現在でも義父の直接のお客様がお二人いらして先斗町にお一人、千葉幕張にお一人。引き続き当店をご贔屓いただいております。

大変有難い事です。感謝! 感謝!

家付娘…祖母

明治十七年生まれの祖母は日清、日露、第一、第二の世界大戦を体験し、近代日本史そのものの姿の中に、強さ、清貧さ、優しさ等を持ち合わせた人柄でした。

祖母は俗に言う「家付娘」でしたから、何につけても家業安泰を生き甲斐として、九十六年の人生を全う致しました。
祖母は私と同じ丑年という事もあり、イヤに馬が合って、常に私を側に座らせて、延々と京都での暮らし方、商いの心得、家業の大切さ等々…夢中になると深夜まで伝授してくれたのですが、「ぎをんの町言葉」は私には難解で話の内容は半分位しか理解できなかった事を祖母には申し訳ないなぁ…と心の中であやまっていました。

そんな祖母を家で看取った私たち家族は、家業への大変な不安と心細さ、寂しさを痛感したことを覚えております。特に主人の落胆ぶりは尋常ではありませんでした。「おばあちゃん子」でしたから…

その頃の日本経済は好景気で多くの企業、大会社が世界中に支店をどんどん広げて、現在のシニア世代(団塊世代)が大活躍!!一ドル八十五円時代の開幕です。

欧米ではそんな日本人サラリーマンを「エコノミックアニマル」等と揶揄した言葉が生まれた程ですが、勝てば官軍、好景気で日本中が浮き立ち、土地バブルの真っ只中です!後半の「バブル崩壊」を今思えば恐ろしい状況がこれからはじまります。

「おぉ~コワ!」