ぎをん齋藤
ぎをん齋藤

女将思い出語り

初めての御所解染帯

十月に入り、いきなり涼しさを越えて肌寒くなり、楓の葉も紅くいろづいて秋の空気となりました。朝晩の冷え込みと共に「着物でも着ようかなぁ…」と気分も揚り久しぶりにタンスを開けて着物や帯を思案します。そんな時間が忙しい日常から離れて楽しいひと時です。

当店に初めてご来店いただくお客様が最初にご所望されるのが「ちりめん御所解染帯」でございます。女性の心をつかむ要因は風雅なる美しさと刺繍の華やかさで、草々の大らかさが画面いっぱいに広がり、野山の中に自身が開放された気分になります。私も同じ女性として「私も一本欲しい!」と義父にねだり、作ってくれたのが朱紅の御所解染帯でした。私が二十七歳でその頃はまだ子供たちが小さくて身につける時間が無かったので、子供を寝かしつけてから夜、ゆっくりと眺めては楽しんでおりました。

この御所解柄というのは、文献には多々説明されておりますが、これ以外の俗説で、江戸城開城の折に御殿勤めの侍女たちへ、現代の退職金代わりにこの小袖を渡したそうで、一両の小袖を解いて裂一片一片を市中に売って生活の糧にしたようです。それ程に絹衣は貴重で当時の庶民には珍しく、手に入れることが誇らしく価値があったのでしょう。

当家の始祖がこの「御所解柄」を当店の一番柄と位置づけて、代々伝達継続してくれた事に感謝して、精進しておりますが、まだ祖母が存命中にこの素晴らしい感動的な着物や帯を、何とか東京銀座に店を構えて広めたいと言ったところ「屏風とのれんは広げすぎたら倒れるからアカン!」と訓戒を受けました。

その頃のことを思えば、新幹線で日帰りが可能になり、江戸時代そのままの店構えを楽しんで遠方より御来客があり、有難い世の中になりました。私が義父よりお下がりの着物を着て、仕事をしていると、何となく義父の守護霊を感じ、祖母の相変らずの訓戒も聴こえて来ます。

 

おばあちゃん、お義父さん、ありがとう!

大河ドラマ女優 藤村志保さん

武原はん先生は「芸は一代かぎり」をモットーに一人も弟子を持たれませんでしたが、唯一女優の藤村志保さんが押しかけ弟子の形で先生からお稽古を受けていらっしゃいました。その折に私も藤村さんとお目にかかる機会に恵まれ、今日までお互いに連絡を取り合う仲となりました。

藤村志保さんは皆さまも良く御存知の通りNHK大河ドラマに多く出演なさって、数多くの物語が印象的でございますが、特に平成三年放送の「太平記」の時は主演の真田広之さん演じる足利尊氏の母親、清子役を受け、その為の役づくりにとてもご熱心で、京都の寺社巡りに私もお供を致しました。

尊氏が生まれたとされる京都府綾部市景徳山安国寺にある井戸水で尊氏が産湯をつかった経緯から、当時長い歴史を経て寂れてしまった安国寺に藤村さんが訪問する為、事前に直接連絡を取りました。当日、早朝より東京を発って、私と綾部に向かったのですが、綾部駅改札には、思いもかけなかった市職員の方々のお出迎えを受け、公用車を用意していただき、私たち二人はびっくりです。更に宴席のご準備まであったのですが、さすがにご遠慮させていただきました。

大河ドラマの舞台となれば、綾部市にとっても「町興し」のきっかけとなりますから、市中が賑わうことは喜ばしい事なんでしょう。 綾部の用事を済ませて、藤村さんは京都に戻り尊氏ゆかりの等持院、銀閣寺心空殿の千体地蔵菩薩を拝跪して東京へ帰られました。

映像の中の藤村志保さんは可憐で優しく、おっとりとした役柄が多いのですが、素顔は生粋の横浜生まれの「浜っ子」で、歯切れの良い闊達な感性の持ち主です。また、そのお母様も当時の女性としては上背があり、物事に対して鷹揚に構え、時々私がご自宅へ伺うと「齋藤さん、ホテルの食事は飽きるでしょ!夕飯を食べて帰りなさい!今夜はね、大根とイカの煮物、いわしのつみれ揚げ、それに酢ごぼうよ!」と…。それが「おふくろの味」とは良く表現したもので、あの美味しさは忘れられず、今でもまねて作るのですが、あの味は出せません。

その後は家族ぐるみでの交遊が続き私の娘は時々、撮影所に遊びに行ったりしたものです。娘の結婚披露宴で藤村さんは介添もつとめて下さり、会場はご年配の方々が多く藤村さんの登場にとてもびっくりして大変喜んで下さり、良い宴となりました。スケジュールの詰まった中での娘への心づくしを有難く感謝しています。藤村さんは現在、体調を崩され療養しておられますが、一日も早くお元気になり、再び映像の中でお会いしたいと心より祈っております。

頑張れ!志保さん!

 

 

 

出逢い ~昭和の日本舞踊家 武原はん先生~

私が四十歳のころ、主人が制作を受け持ち、私が営業販売する体制で、この「齋藤」が走り出すことが決まり、いよいよ東京方面へも出向き始めました。まず手がかりは、先代・井上八千代様より御紹介いただき、義父が毎月お伺いしていた、東京六本木にお住まいの地唄舞の大家、武原はん先生宅へ参上致しました。

当時先生は八十三歳でいらっしゃいましたが、実に美しく、謙虚に年齢を重ねて来られたお姿に感動致しましたことを覚えております。

早朝、私は六時半発の新幹線に乗る為、まだうす暗い四時半に起きて着慣れない着物を着付けて家を出ますと、武原先生のお宅へ十時半ころにお伺いすることが出来ました。ご自宅のエレベーターで六階で降りると、白檀の香りが玄関いっぱいに漂い、私は一気に緊張感が高まり、足がぶるぶると震えます。丁度、先生は朝食兼昼食をされていらして「あら、よく来たわね!」と柔和な笑顔を返して下さって、やっと私は救われた思いです。

私は先生の横に座り京都のお話をして差し上げると、大変喜んで下さいました。先生は関西のご出身なので、私の話にお若い時のご自分を重ねてきっと懐かしく思い出されたのでしょう。

武原先生は主人の作風をとても評価して下さり、二人の感性も一致して「着物もね、生地や柄にこだわりが無いとつまらないわ!」と常々おっしゃっていました。先生は必ず主人に対して次回の宿題を出して下さいまして、それによって主人もご要望にお応えできるよう更に努力して参りました。

先生の魅力は、舞姿は勿論ですが、先生の「懐の深さ」とでも言うか、まず相手を無条件で受け入れて下さる…そして説いて下さる優しさと厳しさとでも言うのでしょうか…性別・年齢を越えて先生の包容力で温かく見つめて下さるのです。そんな先生が毎朝夕のお経や般若心経の写経に精を出していらっしゃるお姿を思い出します。

ある時私に「これ持ち帰ってお父さんのお仏壇にお供えしてちょうだいね」と渡されたのが、先生のお書きになった二枚の写経葉書でした。その日は義父の命日で、先生が覚えてくださった事に大感激!大感謝でした。

そんなお伺いが数年過ぎた折に先生が私に「東京で展示会をしないの?」と尋ねられ、私が即座に「場所がないのです」とお伝えしたところ「あら、じゃあ五階の私の舞台と座敷を使いなさいよ!」と思いがけないお言葉をいただき、私は嬉しさの余り小躍りして京都へ帰り、主人に伝えました。
あれから三十五年、毎年春の三月には先生のお宅五階で展示会を続けさせていただいております…今年の三月も。

そんな出逢いとチャンスは生涯に一度しかないでしょう。私にとって武原はん先生は「人生の生き方」の師匠でした。