ぎをん齋藤
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齊藤康二

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京都東山の祇園一角に店を構えて170年余り、
呉服の専門店として自社で制作した独自の
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弊社の魅力を余すことなくお伝えしていきます。
皆様からのお問い合わせ、ご質問などお待ちしております。
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ぎをん齋藤 齊藤康二
TEL:075-561-1207
(Mail) gion.saitokoji0517@gmail.com

赤は赤でも、、、

赤い帯は好きですか?

近年特に感じるのは御所解帯に限らず、赤の色を求める方が多くなったと思う。

以前は赤色といえば”ド派手”、とあまり好まれない色目の代表的なものだったので、

当時私自身もあえて赤い帯を勧めるようなことは絶対しなかった覚えがあるくらい避けていた色である。

ではこの変化は時代の流れだろうか、または着物に対する色の概念が変わってきたのか、単に流行りか、、、

以前から、私個人的には赤は大好きな色の一つで、何より魅力的な色、人をひきつける力があり、

いろいろな着物にも合わせやすく、おしゃれにはうってつけのアイテムだと思っている。

そんな魅了的な色ではあるが、赤は赤でも我々の出す色はいわゆる絵具の赤ではない。

それは真紅に近い赤で、特に御所解染帯はその柄行に合わせて深みを加えている。

以前に色の話をしたが、色とは無限のものでありどの色調がベストか、など半永久的にわかるはずがない。

毎度悩みながら何回も試してベストと思える色調になるよう心掛けて選択している難しい作業である。

面白い話があり、ヨーロッパ地域の人とその他国籍のバラバラな人たちが赤色を何色絵具で作れるか

試してみたことがあった、結果ヨーロッパは15色、その他は5色前後だったそうである。

では何が違うのか?一つの答えは生まれた国の気候が色素の区別においてかなり

影響力がある、ということだそうである。

わかりやすく言うと季節の移り変わりではなく、日光の直接光と反射光がそれぞれの気候によって

違うため、色の見え方やとらえ方も大きく違ってくるそうなのである。

それくらい色とは微妙で繊細なものなので、そう簡単にベストな答えが見つかるわけがない。

さて、話を戻すと我々が染出す赤も細かい話をすると毎回微妙にその色調は違う、

これは当たり前のことで、人が手作業で色を配合し染めてその時の気候変動によって色の

浸透率や発色が変わってくるから違うのは当たり前のことである。

それがまたその色目のうまみであり、魅力といっていい。

機械できまった配合で量産できるものではなく、その一点一点に特徴があり、

その色に惹かれてものに出会うきっかけとなる、と私は思う。

では貴方はどんな赤が好きですか?

 

 

 

 

御所解染帯復刻版 追加情報

さて、また御所解染名古屋帯の追加情報!

今回はこの復刻版の刺繍について。

御所解染帯の制作過程において一番慎重に進めていくが「刺繍」。

理由としてはやはりコストの割合が大きく、それゆえ柄全体のバランスを保ちながら

地色に合わせた色の配色をし、限られた数を配置することが求められるからである。

色と数の制限とバランス、センスの問われる難しい工程である。

その御所解染帯の主役である刺繍、今回は「京縫」をご紹介したい。

「京縫(きょうぬい)」とは飛鳥時代の仏画縫いからともいわれており、平安時代には縫部司(ぬいべのつかさ)

として都に置かれ、貴族の衣装や武具の装飾に用いられていたのが京縫の始まりと言われている。

そして現在の形となったのは美術革命が起こった16世紀、安土・桃山時代から主に小袖や装飾品などに

その技法が用いられ、需要と共にさらにそれが質の向上へとつながり、現在縫い方は15種以上となる

貴重な伝統技術であり、言い換えれば日本が誇る伝統的な文化遺産でもある。

話を戻すと、我々の御所解染帯はその京縫の約二種類以上を使って刺繍を表現している。

一見するとその識別は難しいが、すが縫い、こま縫い、まつい縫いなど、その箇所に適した

様々な伝統技法を使いこなしてようやくその魅力が発揮されるのである。

数多くの伝統技術で成り立つぎをん齋藤の御所解染帯、ぜひ手に取って良く眺めていただきたい。

 

 

 

AIと感性の狭間

以前からAI(人工知能)の話題は大きく取り上げられているが、昨今その開発スピードには目覚ましいものがある。

AIはよく言われるように自ら性能を向上させることができるいわゆる自己学習能力型で、

その主な特徴は翻訳や推論、問題解決など、知的処理を人間に代わって行う人工的な知能のことであり、

この前もニュースで騒がれていたが、身近なとこでは最近話題となっている「チャットGPT」がそのひとつ。

実は、ある知人からこれが話題になる前にこのチャットを教えていただだいていたので、

いろいろ試しに検索してみたがとても私の手に負える代物ではないことはわかった。

慣れないせいもあるがその情報量とスピードは異次元で、一つの検索から次々と機械的に繰り広げられる

その内容は表現的には冷めた文章だが、目で追うだけでもたいへんなくらい脈々と書き込まれていく。

ネット社会が当たり前となった現代において、その情報処理能力が追い付いていないとされるこの世界に、

また新しく今度はAIというとてつもない未知なる人工知能が導入され、すべてをコントロールされると想像すると

次はどんな世界が出来上がり、我々人間はどう生きていくのだろうか、わくわくするが、本当に恐怖も感じる。

一部の技術者はAIに消極的な意見を持っており、その開発を止めるべきであると言っているのもよくわかる。

しかし、一旦動き出したこの大きな流れは止まることはないだろう。

何故ならその魅力のほうが恐怖より優っているからで、人類は何百年も前からそうやって

犠牲を伴って進化してきたといっても過言ではない。

その犠牲となる兆候はすでに始まっており、例として「AIに奪われる仕事」がそれに当てはまるのではないだろうか。

これからの世界はあらゆるものが機械化され、仕事場から人が消えていくことになるかもしれない。

そんな環境になりつつある世界を背景に考えると、人が感性をもとに0(ゼロ)から作り出すもの、

また人にしかできない表現や思考、創造というものはAIが進化すればするほど失われてはいけないもの、

表裏一体として同じように残していかなければならないものである。

私の仕事は0(ゼロ)からものを生み出すこと、感性をもとに想像しそれを具現化していくことであり、

けしてコンピュータのように1+1=2ではない、言い換えれば1+1=無限であり数値化できない、

機械化されない世界であると確信している。

先日も今手掛けている織名古屋帯菊唐草文の刺繍が出来上がったので職人のところまでそれを見にいったが、

その質感や配色はAIのような1+1では到底真似できないものと自信がある。

それは感性と感性がぶつかったところ、その狭間で出来上がった産物、けして計算から導き出されたような

無機質ではなく、そこには偶然性と必然的なものから成り立つ無限の組み合わせがあり、

だからこそ終わりのない楽しみも感じ取ることができるのである。

:朱地織名古屋帯菊唐草文